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あなたのために、オニオンスープ

新玉葱がやすくなっているので、オニオンスープをつくった。写真をとっておけばよかったのだけれど、気がついたときにはすでにスープは腹のなか。食卓がひとりではないときには、どうしてもそうなる。息子にははやくたべさせてやりたいし、何年もつづけてきたルーチンのなかにはブログ用の写真撮影ははいっていないのだし。自分用の料理と、だれかとたべる料理では、やっぱりなにかがちがう。
だいたいが、自分用だったらオニオンスープはつくらない。オニオンスープはシンプルでおいしいのだけれど、案外と手間がかかる。玉葱をみじんにきざんでバターをいれたフライパンか鍋できつね色になるまでいため、水をたして煮こみ、最後に塩胡椒でしあげるだけだ。たったそれだけのことだけれど、こがさないように玉葱をいためるのに案外と時間と手間がかかる。
むかし、若いころの母が旅行中、昼食のレストランでオニオンスープを注文したら、ほかのひとがたべおわってるのに、まだでてこない。さいごにひとりでスープをたべた、ということがあったそうだ。オニオンスープはおもいのほかに時間がかかる。
ただ、このエピソード、いかにも母らしいなとおもう。母はやたらと気をつかうひとであるくせに、実際には団体行動をよくみだす。すくなくとも若いころには、団体行動でだれかがいなくなったら、ほぼまちがいなく母だった。申し訳なさそうな顔で最後にバスにのりこんでくる母を座席からみまもっていた記憶が一度ならずある。故意にそうしているのではない。それでもそうなってしまう。
その理由のひとつは、母がけっして常識にとらわれないひとだからだ。たとえばオニオンスープの件にしたところで、ほかのひとが常識的に手軽なセットメニューをたのんでいたときに、メニューを仔細に検討し、あまり空腹ではない自分の状態も勘案し、ベストとおもったオニオンスープにたどりついたらしい。適当に周囲にあわせるのではなく自分の頭でしっかりかんがえるのは、たいしたものだとはおもう。けれど、結果としてひととちがったことをして、周囲をやきもきさせる。
息子として長年つきあってきた私は、そんな母をみても、「ああ、またやってるな」ぐらいにしかおもわない。あきれながらも、「らしいな」とおもう。それは1歳上の兄もおなじで、ふたりでよく「ま、そういうひとやからね」と苦笑する。そういう母にそだてられてここにいるのだから、それ以上に非難することもできない。実際、オニオンスープのつくりかたも、母におしえられたものだ。母は、例の旅行での事件のときにつくりかたをまなんだらしい。どうやったのかまでは、しりたくもない。

もう最近ではつくらなくなったが、十数年前までは実家でも玉葱をつくっていた。いまでこそ関西の玉葱産地といえば淡路島ということになっているが、半世紀よりすこしまえまでは泉州地方も玉葱の大産地だった。子どものころ、電車の窓から玉葱小屋が畑にポツンポツンとたてられている風景をよくみたものだ。収穫後の玉葱を乾燥させて保存するための小屋は、泉州の風物詩だった。だから、気候としては玉葱栽培にむいている。自家用で玉葱をつくるひとは、いまでもそこそこにいるだろう。
ところが母は、いつのころからか玉葱は赤玉葱しかつくらなかった。赤玉葱がまずいとはいわないが、ふつうの玉葱とははっきりと味わいがちがう。正直、もらってもあまりうれしくはなかった。ただ、母によれば、生でサラダにするなら赤玉葱にかぎる。ふつうの玉葱をサラダにするには水さらしをしなければならないが、母はそれをきらう。水さらしやアクぬきは、栄養価をすてることになるというのが母の信条である。赤玉葱は加熱してもたべられるのだから、互換性からいえば玉葱は赤をつくるべきだ、というのが母の結論であったらしい。
こんなふうに、母のすべての行動にはきちんと根拠があるのだけれど、それだけに、一般とはちがったことになる。それが周囲から称賛されることもあれば、単純にういてしまうこともある。そして、なれないひとにとっては、しんどいことになったりもする。

なんにしても、玉葱は料理のベースにつかい勝手がいい野菜だ。あまり上手にできたことがないのでいまは自分ではつくらないが、台所にはいつもたっぷり備蓄するようにしている。昨日のオニオンスープを息子はよろこんでくれた。だからというわけでもないが、今日はやはり玉葱をつかってハンバーグをつくった。料理は、やっぱりだれかがたべてくれたほうが気持ちがいい。「あなたのために、チャイニーズスープ」とうたったのは荒井由実だけれど、オニオンスープだっておなじこと。
下の写真は、この春、淡路島をおとずれたときにうつしたもの。まだまだこれからの玉葱畑だ。

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