冷蔵庫。必要か否か

自炊の経歴はながいのだけれど、そのながい期間のかなりの部分、冷蔵庫をつかっていなかった。自炊をするならなにはさておいてもキッチンに冷蔵庫と電子レンジはなければならない。それが現代の常識だろう。けれど、私はながい自炊歴のなかで、ついに一度も電子レンジはもたなかった。冷蔵庫はそうではない。いまもつかっているし、それ以前にも何度かつかったことがあった。つかわない時期もあった。なかった時期もあった。
ひとりぐらしをはじめた20代のころには、そもそも冷蔵庫をもっていなかった。せまい一間のアパートには、もとより冷蔵庫をおく場所もなかった。そういうのがスタンダードな時代もあったわけだ。それで不自由するかといえば、けっこうそうでもなかった。たいしたものをつくらなかったから、生鮮品を保存する必要もなかった。肉や魚は、食べ切れるぶんしかかわなかった。野菜や卵は、常温でもしばらくはおいておける。卵は乾物屋で1個単位でかえる時代でもあったから、とりたててこまることもなかったわけだ。

その後、少し広い目のアパートに引っ越したとき、冷蔵庫を手にいれた。このアパート、キッチンのほかに2間あって、一方の部屋を友人がつかうということで敷金を半分もってもらって入居したものだ。だから、友人のものもいろいろとあった。ベッドとテレビと冷蔵庫はそうやってもちこまれた。ベッドはともかく、テレビと冷蔵庫は共用のものという前提だった。
その冷蔵庫、たしかにしばらくはつかっていた。つかってたといっても、なかにはいっているのは数本のビールくらいだった。やがて会社をやめて自炊をはじめると、すこしは食料品がそこにくわわった。なぜだかちかくのスーパーで鶏皮がやたらとやすかったので、それをかってきていれていたのをおぼえている。ほかになにをいれていたか、あんまり記憶にはない。というのも、わずか数ヶ月でつかうのをやめたからだ。
冷蔵庫をつかうのをやめた理由は、ごく単純なものだった。ある夏の夜、寝ぐるしさにたえられず、せまいアパートのなかを転々としていた。風はそよともふかず、あつさはじっとりと身にまとわりついた。そのとき気がついた。ただでさえあついなか、熱を発しているのは冷蔵庫だ。コンセントをぬくのに一瞬のまよいもなかった。どうせたいしたものははいってはいない。
それ以来、冷蔵庫はただの置きものと化した。あるいて3分のところにコンビニがあったので、ひえたビールがほしければコンビニの冷蔵庫をつかえばいい。なんの不自由もなかった。
いや、自炊をはじめていたのならこまるだろうとおもうかもしれないが、こまらなかった。まず、完全な自炊ではなかったというのがおおきい。1日2食は自分でつくったが、1食は外食もしくは弁当屋の弁当だった。肉や魚は1日1回として、そういうところにたよった。シーチキンや鯖の缶詰もよくつかった。牛乳はのまなかった。卵は、常温でも2週間はもつ。毎日2個消費するなら、10個入りのパックをわるくしてしまうことはない。野菜は漬物にした。かんたんな塩漬けにすることがおおかったが、酢漬けにしても、どっちにせよ常温で数日以上もつ。サラダ感覚でたべるから、これも長期に保存する必要がない。味噌も常温でだいじょうぶだ。納豆はそうもいかなかったが、塩をしておけばすこしは日のべができることがわかった。

そういう生活をつづけていたのだけれど、転機はおもわぬところからおとずれた。私には兄がひとりいて札幌でくらしていたのだけれど、兄嫁が急死した。いろいろあって、私は兄の家に半年ほどくらすことになった。その期間、キッチンにはおもに私がたった。冷蔵庫や階段下のパントリーには、準備のいい兄嫁がのこした食品がたっぷりあった。のこしておいても兄にはつかえないだろう。私はせっせとその食料品を消費することに精をだすようになった。
それまで私は、「なにがやすいか」とか、「これをたべたらどうなるのだろうか」とか、あまりふつうではない基準でしか料理をやってこなかった。それがここにきて、ようやく一般家庭でふつうにつかう食材を手にするようになった。冷蔵庫をあけたらなにはともあれ牛乳と卵と豆腐ぐらいは用意できているような買いものをする生活を経験することになった。バターやマヨネーすやケチャップといった、どこにでもあるようなものを自分がつかってこなかったのだということも、ようやくこのときに気がついた。

ただ、そういう生活はながくはつづかなかった。兄には兄の人生があり、私には私の人生があるからだ。そこから私はあまりおなじところにいつくことのない不安定な生活をはじめた。そんな生活に冷蔵庫が必要なわけもなく、置きものだった冷蔵庫も処分して、完全に冷蔵庫フリーな日々になった。この時期、肉や魚に関してはスーパーの惣菜売り場にやっかいになることがおおかったけれど、その頻度はへっていった。というのも、家庭菜園で野菜をつくるようになって、野菜ならタダで手にはいるようになっていったからだ。畑があれば、冷蔵庫はいらない。なぜなら、必要な野菜を必要なだけ収穫してくればいいからだ。冷蔵庫で保存しなければならないものはほぼかわなかった。それですんでいた。

ただ、それは独身だったからそれですんだのだともいえるだろう。やがて結婚することになると、事情がかわった。妻は、キッチンに冷蔵庫があるのがあたりまえの世界でくらしてきたひとだ。いくら「畑がパントリー」といっても、それで通用するわけがないことは私にもわかった。だから、中古の冷蔵庫をゆずりうけ、子どもがうまれてからはあたらしい冷蔵庫もかった。以後は、冷蔵庫のあるくらしをつづけている。

こんなふうに自分の遍歴をふりかえってみて、さて、冷蔵庫がほんとうに必要なのかどうか、正直、「よくわからない」というのが結論だ。いまの私の生活だと、冷蔵庫よりも重要なのが冷凍庫ということになる。それはコロナの時代だということも関係している。かいものの回数をへらすには、1回のかいものでかいだめしなければならない。かいだめた食品は、一部を冷凍しておきたい。だから、どうあっても冷凍庫はほしくなる。
冷蔵にかんしては、たしかにバターやチーズ、ジャムなんかの保存食品が常備しておけるのはありがたい。とはいえ、いよいよとなれば、たぶんそれらのものがなくても私はさして苦痛にかんじないだろう。ケチャップやマヨネーズも、なければないでどうにでもなる。豆腐をかいおけないのは、ちょっとしんどいかもしれない。そのぶん、高野豆腐をかってごまかすような気もする。
だから、自分ひとりだったら冷蔵庫はどうでもいいのかなともおもう。それでもつかうのは、せっかくあるのにいまさらそのコンセントをぬくのもどうかとおもうからだし、まだまだ息子のために料理をしてやりたいからでもある。うまいものをしっかりたべさせようとおもえば、やっぱり冷蔵庫は便利だ。便利なものはつかえばいい。そのぐらいに融通がきくように、ようやく年齢をかさねてなれたのかなともおもっている。

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