見出し画像

みかけだおしの蚕豆だけど

蚕豆を実家からもらってきた。死んだ父がすきだったこともあって、母は毎年、蚕豆をつくる。父が入院し、還らぬ人となるなかで、うえる量はぐっとへらした。それでもかならずつくる。そして、私にくれる。
正直なところ、蚕豆はもらってもそこまでうれしくはない。すこし苦味をふくんだその味は、季節感があって、けっしてきらいではない。初夏をかんじさせる風物詩だから、すこしぐらいはたべたいとおもう。ではあっても、特別にうまいものでもない。大量にたべたいわけでもない。おかずとおもったらちょっとちがうし、おやつともちがう。しいていうなら塩味をきかせてビールのつまみがいいのだろう。けれど、私は日常的な飲酒はしない。どうにも中途半端だ。
もっとも母は、蚕豆をいろんな料理につかう。このあいだもチーズをのせてオーブンでやいたらうまかったといっていた。手のこんだことをやるのは、それで父がよろこんだからだろう。父が死んで2年がすぎようとしても、ならい性になったものはかわらない。それはそれでわるいことではない。

父がうまれたのは、河内地方のはずれにある農村だった。その農村はやがて都市近郊になり、すっかり住宅地に変貌した。父は終生、うまれた土地をはなれなかった。こまかいことでいうと生家から百メートルほどの場所に新居をたてて分家したし、そのまえには大阪の問屋街に丁稚奉公のようなかっこうで住みこみ従業員をやっていたから、うまれた場所からすこしもうごかなかったわけではない。とはいえ、百メートルのひっこしや数年の奉公は誤差の範囲だろう。
河内地方は、古く江戸時代には綿の生産地だったそうだ。瀬戸内気候で雨がすくないこともあって、商品作物として綿花がつくられた。河内木綿はブランドだったらしい。ただ、作物としての綿は、土地をやせさせる。そこで間作として蚕豆が導入された。豆科の植物は根粒菌によって窒素を固定するから、土地をこやす。残滓は有機質として堆肥につめる。蚕豆がたべたくてつくったというよりは、輪作の都合で蚕豆がつくられた。実際、蚕豆はひとの背ほどもりっぱな草丈にそだつし、根をひきぬくと教科書にのせたいぐらいに典型的な根粒もついている。豆は副産物だ。余得といってもいいだろう。まあ、この綿花の話は又聞きのうろ覚えなのでちょっとあやしいところもある。けれど、蚕豆が河内地方で緑肥的につくられていたというのは、あながちウソでもないのだろう。

だから、河内の男である父は、地域文化をうけつぐさいごの世代として、蚕豆を愛していたのかもしれない。そうでもおもわなければ、たいしてうまくもない蚕豆を毎年つくりつづけたのが理解できないようにおもう。
だいたいが、蚕豆はみかけだおしだ。りっぱな莢をどっさりもらったとおもっても、むいてみたら実はほんのちょっぴりになる。ふんわりと白い綿毛のつまった莢が、かさのほとんどをしめている。これでひと儲けしようとおもっても、現実にはむりだろう。

画像1

蚕豆といえば塩ゆでときまっている。けれど、ビールのつまみにするのでなければ、塩をせずにゆでてもそれなりにうまいとおもう。ゆでたてをさめないうちにたべると、たしかに年にいちどは、この味にめぐりあいたいな、とおもったりもする。

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?