見出し画像

260年の恨みと恩(後編)

 もちろん、最後の砦になった藩とは会津藩のことです。
 会津藩の祖は保科正之。姓は違いますが、彼は二代将軍秀忠の実子なんですね。一回だけ、浮気して子供ができちゃった。それが保科正之、幼名幸松。秀忠は恐妻家で正妻のお江にそのことを隠し続けます(将軍なのに、その辺のお父さんみたいなのが秀忠の魅力です)。
 しかしついにばれ、幸松はその辺にいられなくなるんですね。お江はよっぽど怖いカミさんだったんでしょう、彼の行き先は遠く、信州・高遠の保科家(3万石)でした。将軍の実子にして彼の前半生は不遇でした。  

 ところが時は過ぎ、秀忠引退のあと三代家光の治世に入り、状況は一変します。母は違えど、自分の弟を家光はそのままにはしませんでした。実弟として、将軍の補佐役とし最上山形、続いて会津23万石の城主としたのです。(実際は28万石。御三家である水戸家より多くなってしまうので、5万石は幕府預けとした。)突然の、前例のない厚遇といっていいでしょう。  

 この時の保科正之の感動が、その後の会津藩をカタチ作ったといっても過言ではありません。家訓15条は子孫に徳川家への絶対忠誠を謳います。会津藩は最後の一兵まで将軍の恩義に報いるため戦う軍団になった。  

 そして、9代目藩主松平容保は京都守護として、幕府が弱りきった幕末の絶妙なタイミングで歴史に登場します。長い平和にさらされて、多くの譜代・親藩はこの時期文武ともに非常に弱体化していたのですが、会津藩だけは幕府創建当時のような武士団を持っていたのです。京の町で彼はやりすぎるくらい不逞浪士の取り締まりを敢行します。
 ところが、犬のようにご主人様の敵に噛み付き続けた会津藩を横目に肝心のご主人はもうやる気を失っていたんですね。
 15代将軍慶喜は恭順の意を示し、官軍は振り上げた刀を下ろす場所がない状態。自然と獰猛な飼い犬にその矛先は向かいます。大量の血を流した長州・土佐といった諸藩の恨みを一身に受けた会津藩はそれこそボロキレのように本拠地会津若松を蹂躙されるのです。絶対忠誠を身を以て完遂してしまった。  

 私は幕末オールスターの中で、会津藩ほど運命を感じる集団を他に知りません。それでいて幕府を恨んでいたかというとそうでもない(一方、途中で態度を変えた薩摩にはだまされたとは言いますが、、)。愚直で精強、200年前の恩はそのくらいでは消えないのかもしれません。
 浮気から始まったというのもすごい話ですが、壮絶な歴史は今でも会津の人の誇りでしょう。

画像1

【写真:TOP】会津戦争で落城した満身創痍の会津藩の主城・鶴ヶ城
【写真:BOTTOM】現在の会津若松・鶴ヶ城 2月にはろうそく祭りがおこなわれ、幻想的な光景が広がる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?