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別れの季節に思うこと。

東日本大震災が起きたのは、私が小学6年生の時でした。

巣立ちの日を前にして、背伸びしているのか、浮足立っているのか、12才の子どもたちが放つ独特の空気が満ちた教室で、帰りの会が行われていた、ちょうどそんな時間のことでした。

多くの日本人が経験したことのない巨大な揺れ。東京に住んでいた私も、大きな被害は受けなかったとは言え、少なからず日常を揺さぶられました。

卒業式の後の謝恩会がなくなり。友達とディズニーランドに行く予定がなくなり。じきに離れ離れになってしまうみんなとのお別れの機会を、ひとつふたつと絶たれてしまったのでした。

「自粛ムード」が持つ物理的な意味合いも、精神的な意味合いも、子どもなりに分かってはいました。それでも、どうしても、惜しくないとは言えませんでした。

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しかしあれから9年が経ち、今の日本の状況を外から眺めていると、なんというか、あれってまだ恵まれていたのかなと、言葉選びが適切でないかも知れませんが、違ったふうに思えてきます。

学年度の終わり、そして卒業間近。そんな時期に学校での時間をまるっと取り上げられて、かけがえのない別れの瞬間も迎えられなくなることに、多くの生徒とそのまわりの大人たちが、心を痛めていることと思います。

高校3年生の弟が、まさにその当事者なのです。

彼は全寮制の学校に通っていたので、卒業式のほかに『退寮式』とやらを控えていました。どうやらそれは、少しアンオフィシャルな雰囲気の送別イベントらしく、とにかく、3年間のフィナーレを飾る特別な日々を、心底楽しみにしていたのでした。

だから、それらが中止になったと母から聞いた時は、私は当事者でない立場ながら、やるせなさを、本当にひたすら遣る瀬なく、抱くことしかできませんでした。

「退寮式でこの漫才やるんだよね」とお手本の動画を見せてくれた彼の、面映そうな表情が思い出されて。お別れの形を歪められてしまった18歳の気持ちを想像なんてできなくて、ただ言葉が出ませんでした。

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話は少し逸れて、自分自身のことを書きます。帰国を3週間後に控えた私は、今まさに「別れの形」について悩んでいます。

どうしたらこの街で過ごした月日を綺麗に閉じ、そしてお世話になった人たちに感謝を伝えきれるだろうと、忙しない時間の中で考えているのです。

そんな日々の中で、この前の土曜日のこと。心に残る出来事がありました。

その日はパートナー校の今年度最後の授業日で、私は諸用とお別れを兼ね、馴染みの教室に滞在していました。

よく誤解されるのですが、私は「日本のNPO団体から派遣された駐在員」として働いていた身で、「先生として」授業を行ってきたわけではありません。

そして、プロジェクトの参加対象となる学年も限られてくるので、それに該当しない生徒たちにとっての私は、「よく学校に来て何かしている、顔の見知った外国人」でしかないということも、往々にしてあったんです。

19歳のクイニーも、その1人のはずでした。

典型的な優等生の彼女は、いつも私を助けてくれる存在でした。例えばクラスでアンケートを実施するときなんか、生徒が溢れてカオスに陥った教室をまとめ上げ、代わりに仕切ってくれて、大いに助かりまくっておりました。

過去にはインタビューに応じてくれたこともあり、「教師になりたいけれど、10代で赤ちゃんを産んだから、もう毎日学校に通うことはできない」と、心の内を涙ながらに教えてくれました。

そんな彼女、普段はとてもクールな生徒なんです。私が「いつも手伝ってくれてありがとう」と感謝を伝えても、「英語が上手で本当にすごいねえ」と感嘆を伝えても、はしゃぐことなく、必要以上に会話を続けようとすることもなく、なんてことない風に微笑むだけの、大人っぽい女性でした。

その日も彼女はいつもと変わらずで、淡々と作業を手伝ってくれていました。

しかし帰り際、先生が生徒たちに「真由さんはもうすぐ日本に帰るから、みんなでありがとうと言いましょうね」と呼びかけてくださった刹那、クイニーが目を見開いて顔を上げたんです。少しだけ瞳を赤くしながら。

そんな風に彼女に見つめられたのは、初めてでした。

「帰るの?寂しくなっちゃうよ」と口にした彼女に、慌てて「あ、まだ1ヶ月くらいあるの……またさよならを言いに、学校に戻ってくるよ!」と告げます。するとはっきりと、「待ってるね。」と言ってくれたのでした。

私はこの18ヶ月間、とても大雑把に言えば「途上国で教育支援」をしてきたはずですが、特に彼女には、サポートしてもらうことばかりでした。私自身が彼女に与えられたものなんて、ちっぽけにも程がある……ようなことだったはずです。

なのにああやって、なぜか分からないけど、別れを惜しんでくれたこと。そして彼女の他にも、普段挨拶と会話くらいしかできなかった多くの生徒が、同じようにハグをしてくれたこと。

驚きと、嬉しさと、湧いてきたさよならの実感で、胸がいっぱいになりました。

「出会いの数だけ別れがある」なんて何番煎じか分からない言葉、これまで真剣に捉えたことはなかったのに。あの教室でたくさんの瞳に見つめられた時、それが身に迫ってきたのでした。

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そして話は、弟の方に戻ります。実は彼の話には、続きがあるのです。

突如休校を宣告され、「この期間内で学校に荷物を回収しにくるように」と先生に指示された弟と同級生たち。

彼らはそれを逆手に取って、「取りに行く日合わせようぜ」と示し合わせ、自分たちで「別れの場」を作ってしまったらしいのです。

それはどう考えても、待ち望んでいたものとは全然違う形だったはず。

でもLINEで彼から届いた「みんなに会えました」のひとことが、全てを物語っているように思うんです。(練習した漫才もちゃんと披露できたらしく、その時の動画が送られてきました)

別れってきっと、しかるべきイニシエーションがあってこそ意味と重みが与えられて、そこでやっと受け入れ可能になるものだと、私は思います。

だから、人の力の及ばない事情でそれを失ってもなお、なんとか取り返そうとする若さと強さに……うん、姉感動。

彼らを見習おう……ではないですが、私も別れの時を大切にしたい。

普段からお世話になった人たちにはもちろん、言葉の壁で十分にやり取りできない生徒にも、「日本に帰る」ことの意味が分からない4歳のあの子にも、あまりたくさんは話せなかったルームメイトにも、後悔しないような形で、ありがとうとさようならを伝えたい。

約600日分のそれには、きっと相当な覚悟と準備がいるだろうなあ。

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