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同じ街には帰れない。

「あの飲み屋もあのラーメン屋も、とうとう閉店しちゃったんだって」

そんな話を聞くたびに、ああそういえばそんな店もあったな、と思う。この2年間、片手で数えられるほどしか大学に足を運んでいない。高田馬場駅前の景色すらおぼろげなので、こういう話題がどこか他人事に思えるのも当然だと思う。

半年前、1年半に渡る休学期間が明けたとき、始まったのはオンライン授業との新たな日常だった。意外となんとかなるものだ、と思いつつ、卒業を目の前にした同級生のことを思うと心が痛んだ。

オンライン授業は「キャンパスライフ」を叶えてはくれない。問題なく授業が受けられても、手のひらの中で友人と繋がれても、そこにこれまでと同じ青春はない。卒業式はできるのだろうか。袴の予約をすべきか迷っている彼らに、切実さを感じずにいられない。

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zoom飲み、なるものが誕生した。ソーシャルディスタンスを言い渡された現代人が、テクノロジーを武器に心の距離を保とうとした結果だ。合理的かつ経済的なそれは完璧な打開策であるように思われたが、ニューノーマル、の座までは獲得できなかった。

授業もミーティングも画面越しの世界で、アフターファイブにもそれを求めるのは過酷な提案だったのだろうか。それとも心の触れ合いとは、やはり身体性を伴ってこそだったのだろうか。zoom飲みをストーリーで見かけることはなくなった。

東京には喧騒が戻りつつある。「未知のウィルスの脅威」のレベル感をある程度悟った(ような顔をしている)人々は、軽装備をして街に出る。誰もが等しく覚悟していて、誰もが等しく他人事だと思っているようだ。それこそSNSに溢れる「日常」には、パンデミックなど存在しない。

しかしこの「日常」は、やはり1年前のそれとは随分違う。

透明の板があちこちに設えられ、お釣りは手渡ししてもらえなくなった。ラストオーダーは早まり、降りたままのシャッターが増えた。満員電車の密度が心なしか減ったように思う。

街の喧騒だって、ふさがれた口から漏れ出た声の集積に過ぎない。

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遡ること今年の3月。フィリピンの地方都市でインターンをしていた私は、首都マニラのロックダウン宣言を受け、急遽帰国を早めることとなった。

滞在を延長してまで過ごしたフィリピンでの570日は、あっけなく強制終了。たった2週間の前倒しだったが、その2週間で見たかった景色も、会いたかった人の顔も、無数に浮かんでくるから切ない。

現地の友人に空港まで送ってもらったお別れの日。泣き腫らした目で飛行機に乗り込み、数時間後、トランジットでセブの空港に降り立った。セブはずっと来てみたかった場所だったが、「緊急のフライト変更でそれが叶うなんて皮肉だなあ」と自嘲気味に思った。

そう、1年半もフィリピンで暮らしておいて、あの頃の私はセブ旅行すらできなかった。お金にも時間にも余裕がなかったからだ。しかしそういう忙しなさもひっくるめて愛おしい日々だったし、あとは何より「フィリピン近いし、またいつでも遊びに来れるでしょ」と考えていたのが大きい。

だからあのときも、急な帰国が辛くはあったが、「必ずまた会いに来る」という確信があったから吹っ切れたのだ。「コロナが落ち着いたら海外旅行したい」という世界共通すぎる望みがあるが、私が真っ先に行きたいのは、どんな素晴らしい観光地よりも、散々暮らしたあの街だ。

次訪れるときには景色ががらっと変わっているかも知れない。そうだとしても、あの人たちに会えれば、改めてお礼を言えれば、それで良い。厳しい状況だろうが、その日まで元気でいて欲しい。

フィリピンは日本よりも外出に厳しいらしいし、よほどのことがなければ感染はないだろう。仕事の方も、元々定職に就く人が多くない国だし、何なら有事でなくても店はしょっちゅう潰れていた。それでもけろっと次の仕事を見つけている人たちだったし、気づけば新たな店が立っていた。今だって、いつものように家族や地域で支え合って暮らしているに違いない。

日本よりも打たれ強いんじゃないだろうか。祈りに近い想像をしていた。

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しかしそんな祈りは、ある人の訃報であっさりと裏切られるのだった。

現地でお世話になった大学の、教育学部の学部長。私の母より何歳か若いように見える、愛らしい女性。私はその大学に通ったわけではなかったが、とあるプロジェクトに協力してもらっていた。

大学のFacebookには、モノクロ加工された彼女の写真が投稿されていた。突然の訃報に、生徒や教師からのコメントが数え切れないほど寄せられていた。

彼女のもとで働いていた教授にお悔やみの連絡をした。「上司を失って辛いでしょう」と私がいうと、「上司であり友人だった」と彼はこたえた。

誰に対しても、愛と敬意を持って接する人だった。日本の文化を愛してくれていた。私が訪ねていくと、明るく日本語で挨拶してくれた。

彼女の表情と声が好きだった。いつも口角がきゅっと上がり、好奇心に満ちた瞳を輝せていた。安心感を与えてくれる、優しく澄んだ声をしていた。忙しい人だったが、いつも穏やかで温かかった。

亡くなった原因ははっきりと公表されていないが、コロナだったら一層悔しい、というだけのことだ。彼女がいない事実は変わらないし、なんにせよもう一生、感謝もお別れも伝えられない。

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今年に入ってから世界中の人々が、かけがえない時間を、人を、夢を失ってきた。テクノロジーはあらゆる壁を壊し活路を見出すが、全ての不条理が解消されることは決してない。

私たちは、物わかりの良い人間である必要などないのではないか、と思う。激動の中で失ったものを嘆き、弔うことは、いつだって、VUCAの時代にだって、許されるはずだ。

あの街に戻れるのはいつになるだろう。彼女のいないあの街で、ひとつでも多く、愛しいものに出会いたい。




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