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#最終話 明日の月は綺麗でしょうね

 10月1日、午前3時。某ビル屋上。

「遅いですよ!早く早く!」
 彼女はこれから死ぬのを心待ちにしていたかのようにビルの階段を軽快に昇っていった。悪戯な笑みを浮かべる彼女は天使のような、悪魔のような。はたまた妖精かのような。
 屋上まで一足先に着いた彼女は腕を大きく伸ばした。
「んん〜、風が気持ちいいですねぇ〜。ね?湊太さん!」
 今までに見たのことのない元気の良さ。夏の水族館以上だった。これから死ぬ人間の最高に嬉々とした表情。こんな最期を迎える人間なんて見たことがない。
 僕は階段しかないような古いビルを勧めたことを心から悔やんだ。
 彼女は飛んだり跳ねたりしながら柵に駆け寄っていき、その勢いのまま落ちていくのではないかと思うほどに身を乗り出した。僕が思わず「はっ!」と声を上げると、彼女はケラケラと笑った。
「最期の挨拶も無しに死にませんって」
「君が死ぬより先に、僕がショックで死にそうだ……」
「それは大変!私、独りで死ぬのは嫌です」
「じゃあ少し大人しくしてくれ…それでなくても不法侵入でひやひやしているんだから…」
 僕の心配も余所に、彼女は眼下を通る時間の概念をなくしたまばらに行き交う人々を、肘をついて眺め始めた。僕もその傍で同じポーズを取った。風に靡く彼女の黒髪が輝いている。
 殺風景なビルの屋上に秋の風が飄々と吹き抜けていった。階段を昇ったせいだろう、呼吸の乱れていた僕は一つ深呼吸をしてみた。乾いた空気が体を形取りながら刺すように駆け巡ってゆく。
 僕ら2人は、数分間、ただそこに立ち尽くした。
 これから彼女が横たわるであろうコンクリートの地面を見下ろしながら。
「ねえねえ、湊太さん。ここから落ちたら本当に死ねますかね?」
 闇夜の中、街頭や月明かりでぼんやりと浮かび上がる彼女の横顔は、妖艶で美しい。
「さあ、どうだろうね」
「痛いんですかね?」
「痛いんじゃないか」
「死ぬのに?」
「ああ」
「どうしてですか?」
 不意に向けられた視線を流すようにまた地面を見つめた。
「……落ちてみたら分かるさ」
 彼女が落ちた後のことなど、想像もつかなければ、したくもなかった。僕は彼女が死ぬ事実よりも、その後の自分を案じていた。
「湊太さん、今日いいお天気で良かったですね」
 そう言って彼女は夜空の下に寝転がった。
「お隣いかが?」
 彼女はぽんぽんと地面を叩いて僕を促す。
「ああ」
 寝転がったコンクリートの地面は、冷たくゴツゴツしていてみるみると体温を奪っていった。あまり長くこうしていられそうにはなかった。
「夜空を眺めるのは今日で最後。湊太さんと隣で寝転ぶのは今日が最初で最後」
「そうだな」
「…何かもっと感想ないんですか?」
「これから死ぬ人間に僕の感情を伝えてどうする」
「冷たいですねぇ。このコンクリートより冷たい。死人に口無しなんですから、生きているうちに会話しましょうよ」
 段々と、イライラしてきている自分がいた。どうしてこんな小娘に翻弄されなければいけないのかと、ふと思った。意固地になっているのだろうか。
 彼女は無言を貫く僕を無視して続けた。
「夏目漱石の言葉で月に関するものがあるんですけど、知ってます?」
「英語教師をしていた頃の話だろう?」
「そうです。よくご存知で。小説家はどうしてあんな言葉がどんどん出てくるんでしょうね。毎日どんなものを見て生きていたんでしょう」
「そんな煌びやかな生活だとは思えないな。裕福だったとは思うが、心が裕福で満たされていたら、小説なんて書きやしないさ」
「そうなんでしょうか…」
 文豪と呼ばれた人たちは、僕らのように灰色の世界を見ていたのではなかろうか。彩を求めて自分の中に異世界を作り上げていたのではなかろうか。



「湊太さん……今日は月が綺麗ですね…」
 月を見上げたままそう呟いた彼女を見遣った。
「ああ…綺麗だな。でも、満月は明日だそうだ」
 どう答えるべきかなんとなく察してしまったが、僕は答えるべきであろう言葉は伝えなかった。
 彼女はずるい人間だ。そして僕は更にずるい人間だった。
 先に大きく溜息を吐いたのは彼女だった。心底うんざりした顔をして上体を起こした。
「本当に、最悪最低です」
「悪かったな、最悪最低で」
 冷たい夜風が体温を奪っていく。どうせなら、この言い様のない感情を風と共に奪っていって欲しかった。

 僕が体を起こそうとした時、突然彼女が馬乗りになって僕の顔を両手で鷲掴んだ。彼女の手は冷え切っている。こんなに小さな手だったか。そして、彼女の瞳には涙が溢れていた。
「今まで、こんなに同じ時を過ごしてくれた人は初めてでした。とても感謝しています。サイトで出会った時から私の気持ちを認めてくださって、すごく嬉しかった。きっとあなたも私から得たものがあるでしょう。あなたは死ぬまで私のことを思い出し続けるはずです。でも…最後の最後に…私を認めてくれないのですね…」
 彼女の涙が僕の顔へと降り注いだ。
「能崎……………?」
「ねぇ、湊太さん……明日の月は綺麗でしょうね

「ま………待って……!能崎…………能崎っ!」



───────────────────────

 午前4時30分。
 彼女の巣立ち予定時刻。

 震える脚で急いで柵まで駆け寄り、ビルの屋上から見下ろした先には、さっきまで生きていたはずの彼女だったモノが水風船のように弾けて、この世界と決別していた。どろどろとした赤黒い液体と共に、彼女という魂がこの反吐の出る世界に溶け出ていってしまっているように思えた。ぴくりとも動かないところを見るに、即死であろう。彼女はもう……息絶えている。
 今までも、こんな光景など何人と見てきているはずだ。いつもなら無感情にその死体を眺め、その場をすぐに後にする。それなのに、ただひたすらに後悔が押し寄せ、この現実を信じられずにいた。柵を握る手が震えた。
 あの一言の後、止める間もなく彼女は突然走り出して、あっという間に柵を乗り越えていってしまった。
 その光景は全てがスローモーションに見えた。躊躇いなく柵を登り蹴飛ばした脚。ふわりと広がる髪と服。夜空に浮かぶ彼女。ほんの少しこちらを向いた彼女の顔。涙。その全てを僕は地べたに這いつくばったまま情けない顔をして眺めていた。
 動けなかった。彼女を止めようと思えばいくらでも止められたはずなのに、何故か僕は動かなかった。止めてはいけない気がした。僕が止める資格はないと思った。それなのに、今こんなにも後悔している。
 ぐしゃりと遠くで音が聞こえて彼女が生きている可能性が無さそうなことをどこかで感じた。
 目を見開いて、しばらく見下ろしていた彼女だったモノから視線を逸らし、ビルの柵をずるずると伝い落ちてへたり込んだ。
 死んでしまった……彼女が…。
 能崎が……死んでしまった…この世から消えた…。
 初めて最期に泣いている人を見た。しかも、僕のせいで彼女は悲しみの涙を流したのだ。
 僕のせいで…。僕が殺した…………。
 その時、彼女が最後に口にした言葉がどういう意味を含んでいるか思い出せなかったが、今になって理解した。
 涙が溢れて溢れて止まらなかった。どうして…どうして僕は最後まで素直になれなかったのか。どうして自分のことだけを考えてしまったのか。
 僕はなんだか笑えて来てしまった。愚かな自分を笑うしかなかった。僕は彼女との日々を最後まで自分のために使ったのだ。彼女のために過ごした日はあったか…?分からない。無いに等しいのだろう。
 僕は自分自身で呪いをまた一つ増やした。
 狂い始めた感情を押し殺していると、吐き気が襲ってきた。
 もう、彼女を見ることは出来なかった。
「能崎………そんな…そんな最期が…あるかよ………」



 残酷にも月は夜空で美しく輝いていた。
 借り物の光を、さも自分のもののようにして。
「"明日の月は綺麗"だろうな…」
 僕はぽつりと呟きながら夜空を見上げ、滲む月を見て思った。
 死んでも良いなと。

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