#18 さよなら。僕たちの平凡な日々。
最後の1ヶ月間、彼女は身辺整理をし続けた。
彼女の身辺整理は至って単純な作業で、僕の家に持ち込んだ物、来てから増やした物の整理が大半を占めた。彼女はアクセサリーや本など、お気に入りだったもの一つ一つへ律儀なまでに感謝の気持ちを告げながらゴミ袋に詰め込んでいった。
時には、悩みに悩んだ末にどうしても彼女自らの手では捨てられないものが出てきた。そういう物たちには新たに箱を作って保管させた。彼女がこの世を去った後に僕が責任を持って処理することを約束した。
僕は、その箱を捨てられるかいくらか不安を覚えた。彼女の形見だなんて言って保存したら、気持ち悪がられるんだろうなと怒っている彼女を想像した。
最後のひと月のうちのある日。
彼女が使用していた部屋で、服をごっそりと捨てるその合間に彼女の死装束ファッションショーに付き合わされた。突然呼ばれたかと思いきや椅子に座らされ、こっちかあっちかと目紛しく変わる服を頬杖を付きながら眺めた。
「最終日の服装、どれが良いと思いますか?」
ずらりと並んだ服はどれもワンピースで、しかもやたらと風に靡きそうなものばかりだった。
「これ…ワンピースだらけだな。落ちる時にもれなく下着が見えるぞ」
「押さえて落ちますよ!別に、死んだら何も分からないんですから、いいじゃないですか。本当に一言多いんだから」
「はいはい。君の一番お気に入りはどれなんだ?」
「うーんと…これですかね、黒のワンピース。夜に染まりながら眠れそうじゃないですか?それに、勝手にビルに侵入するんですから、目立たない色が良いと思いますし」
女というものは人に尋ねるくせに答えが決まっていて厄介だ。今回は上手く引き出せた気がする。
「じゃあそれにしよう。せっかくなら一番気に入っている服で最期を迎えたら良いと思う。僕も目立たない服装で行かないとな」
「私が死ぬ前に、湊太さんが見つかったら元も子もありませんね」
クスクスと笑う彼女は自分の死を何とも思ってないのだろうか。恐怖はないのだろうか。
「さて、服も決まったことだし、君と過ごせるのも後少しだ。リビングでお茶でも淹れてみようか」
「あら、お茶なんてそんな洒落たもの、湊太さんの概念にあったんですね」
「君も一言多いな。初めて会った時お茶しただろう」
「そうでしたね」
僕らは戯言を交わしながらリビングへと移動した。
彼女はすっかり定位置が決まったテーブルの前へ腰を下ろす。僕はお茶を入れようとキッチンに入り、視界に入った冷蔵庫を見てふと思い出した。
「そういえば、あれから全く料理していないじゃないか。あんなに買い込んだのに冷凍なのを良いことに食材が眠ったままだぞ。どうするんだこの量…」
冷凍の引き出しを開けつつ、山程残留している食材を見ていつこれらが一人で食べ切れるかと懸念した。もう2食分作ることなんてこの先当分無い。
「しばらくお金もかからずに食べていけるじゃないですか」
「そうじゃなくてだな…」
一人になったらカップラーメンとか、惣菜とかそんなものでいい。それなのにこれだけ買い込んだのは君が居たからだということに、彼女は気付いていないのか、その素振りをしているだけか。
「まあいいや。いざという時の食材にしておこう」
僕は電気ケトルの電源を入れ湯を沸かした。ぼこぼこという音が響く空間に、僕以外の人がいる。テーブルに両肘を付き、音楽もかかっていないのに、うきうきしながら脚をばたつかせてお茶を待つ人がいる。
僕には不思議な3ヶ月間だった。人が同じ空間に居ることは意外にも負担ではなかった。それが彼女だったからなのかどうかは定かではないが、そうだと思う。彼女の持つどこか優しい空気感に僕はきっと安心していたのだ。そのお陰もあって、以前より人の生の感情に触れることに、ほんの僅かだが慣れた。業務の際に実際に会って話すことが確実に気楽になった。
気楽になったのに。慣れたのに、終わるんだ。
「湊太さん…?いつまで注いで…え…ちょ………ちょっと!何漫画みたいなことしてるんですか!!」
お湯を注いでいたカップから熱湯が盛大に溢れていた。
「え…?うわっ!あっつ!!」
我に返った瞬間、様々な情報が目に飛び込んできて、持っていたポットを手放してしまった。それは運良くシンクの中に轟音を響かせながら落ちていった。
「うわあ!ちょっと!暴れないで!もう〜しっかりしてくださいよ!何してるんですか…怪我はないですか?」
彼女は素早くタオルを持ってきては僕の手を掴んで火傷や怪我がないか確かめた。それが何故か小っ恥ずかしくて僕は急いで手を引っ込めた。
「だ…大丈夫だ…ごめん、要らぬ仕事を増やした」
「考え事なら後にしてくださいよ〜まったく…ねぇ〜キンちゃん…………キンちゃん…!」
彼女が水槽に向かって叫んだ。次から次へと騒々しく事件が起きる。
「今度はなんだ……てかなんだキンちゃんって。いつそんな名前を付けたんだ」
「金魚のキンちゃんです…!死んでる……」
キッチンのカウンター越しに僕のデスクを見遣ると、夏の金魚が腹を見せて浮いていた。
「いつ…いつ死んでしまったの…」
自分だってあと少しで死ぬくせに、何故そこまで金魚の死を悲しめるのか不思議でならなかった。
「2ヶ月も持ったんだ。金魚すくいの奴にしては長生きだったんじゃないか?親孝行者じゃないか。君より先に死ぬなんて」
「私はこの子にはもっと長生きして欲しかったのに…どうして死んでしまったの…」
その気持ちを僕はこれから味わうんだぞと言いかけてやめた。死者にどうしてと問うなんて、エゴでしかないからだ。救えない時にはどうしたって救えない。彼女もまた救えない命のうちの一つにしかすぎない。
「僕が言うのも難だが、一旦落ち着こう。ほら、紅茶淹れ直したから。座って」
「……はい」
素朴なミルククッキーと紅茶を差し出すと彼女は顔を歪ませながら黙ってそれらを口に運んだ。
「君は自分以外の死には敏感なんだな」
「だって悲しいじゃないですか」
「矛盾してる。自分は良いのか」
「はい。要らない存在なので悲しむ人は居ないですから」
「ほお…なるほどね…」
ここに悲しむ奴が居るぞとは口が裂けても言えなかった。そう言った瞬間の彼女の目が死んだから。
彼女の精神はとうに死んでいるんだろう。僅かな灯火を残しているだけで、その僅かな燃焼剤はもう肉体が死ぬのを待っているような、そんな印象を受けた。
「君が残した箱には何を入れたんだ?」
「それは私が死んだ後にでも確認してください」
「なんだよ、素っ気無いな」
「大したものではないので。それより、キンちゃんを弔ってあげなきゃ」
「こんな都会じゃあ埋めるところもないぞ」
「大丈夫です。このマンションの植木に埋めてあげます」
「じゃあ、よろしく頼んだ」
「はい」
僕たちのテーブルを囲んでの最後であろう会話はなんとも暗い内容に終わった。
「1日、寒くないといいなぁ…」
「夜なんだから寒いだろうよ」
「ええ〜?嫌です…」
「どんなわがままだ……」
さよなら。僕たちの平凡な日々。
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