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自分らしく、今、ここに生きるということ①

自分らしくって?

「自分らしく、今、ここに生きる」って、自分は今、生きてるし、この自分で生きるのが「らしい」ってことなんじゃないの?という意見はごもっとも!

だけど、今ここにいることがツラくて、生きるために今ここから逃げる、ということが人間にはできる、という知識があったら、あなたの力になるし、誰かの力になることもできるかもしれない。

わたしはそんな風に考えています。


生まれてから、今まで、成長してくる間に、私たちは様々なことを学んで身につけています。

特に、生まれ育った環境で身につけたことは、あなたの「当たり前」になっていて、そのことについて、改めて考えたりすることはあまりなかったかもしれません。

でも、もしかしたら、どうして私はこんな家に生まれたんだろう?もっと違う親だったら、と考えてしまったこともあるかもしれない。そういうことは、よくあることだったりします。

ありのままって?

私も以前は、自分の環境を嫌っていたなと思います。

住む家があって、食事が抜かれたりすることはなく、基本的な必要なものは与えられ、着る服もあり、勉強することもできたけれど、それが幸せだと感じるのは難しかったなと思って。

アフリカの貧しい地域で、毎食の食事も調達できずに、痩せ衰えている赤ちゃんの映像を見て、「この子たちに比べて、あなたはとてもしあわせよ」と言われたりしたのだけど、そして、それはそのとおりだとは思ったけど、幸福はそういう風に誰かと比べてもあまり感じられないものだったりします。


私の家は、父親が厳しくて、子どもは親の所有物でした。親が金を出しているうちは、親の言うことに逆らってはいけない、と言うことが絶対でした。

自分で何かを考えて、考えたとおりにやってみようと思うことは無駄でした。私の考えることは、すべて否定されたし、親の言う通りにできないと怒鳴られて、家中の空気が悪くなるのが普通のことで、それが当たり前の環境で育ちました。

大人は、私のことを「素直な子」だと言いました。大人の言うことに逆らわず、従順で扱いやすいからですよね。「いい子ね」と褒められれば嬉しいけど、それは大抵、同級生の反感を買いました。

八方美人で自分の考えがない、と罵られたこともあるし、優等生でいい子ぶってる事が気に入らないといじめられたりすることもありました。

実際、常に誰かの顔色(大抵はその場で一番力がある人)を伺っていて、そのひとの言うとおりにするために全神経を使って、空気を読んで、その人が機嫌悪くならないようにすることに全力を注いでいたので、その周りにいた人たちには、感じ悪く映ったことだろうな、と思います。自分の外側に、いつも全力使っていたので、「自分の考え」などと言うのは、まるでなくて、それはすべて「誰かの借り物」でした。

それをやると、力のある人(家なら親、学校なら先生、とか)からは重宝されるので、そこに自分の居場所を作れる。だからそういうことを一生懸命やっていたのだなと思っています。

私は、私のままでいることは許されず、私がやりたいと思うことは、「くだらなくて、何の役にも立たない」と思っていたので、自分は「そのままでいい」と思うことはできませんでした。

自分のままでいるということ

誰かの借り物で生きていると、どんどんハリボテみたいになってきます。どれが自分かわからなくなってしまって、いつも誰かに依存していないといけなくなるという事が起きます。そして、誰かに依存している時、その依存しているひとのいうとおりに、その人に気に入るように動く、と言うことを繰り返していきます。

だけど、他人の言うとおりに完璧に動けるなんてことはないのです。人間だから、その時その時で、気持ちも変わるし、機嫌も変わるし、考え方も変わるし、それを全部、他人が理解することなんて不可能なんです。想像することはできるかもしれないけど、その想像通りでないことの方が多いのです。

でも、誰かにべったり依存していると、その想像が外れた時に、その誰かに「お前はダメだ」と言われたりします。それができるから側に置いているのに、できないなら意味がない、と。
そうなると、自分の居場所を失ってしまうかも・・・と言う恐怖を感じるので、より一層、必死になって、その誰かの考え、気持ち、行動を理解して、何とか気に入られようとするようになって、自分を犠牲にして、私自身の喜びは無視して、辛かったり苦しかったりすることも無視して、生きて延びようとする。

それをずっとずっと繰り返すと、自分が自分と分離していくような感覚になっていきました。現実に生きている感覚が鈍ってくるのです。

空想の中で

空想の中でだけ、私は自由でした。

本当に幼い時は、空想と現実の違いがつきません。小さな子どもが、サンタさんがいると信じられるのは、空想と現実がくっきりと区別されていないからです。でも、だんだん成長してくると、たくさん知識が出てきて、サンタがトナカイのソリに乗って、空を飛んでくることは、現実的ではないと言うことを知ります。

私の5歳の子どもは、ミッキーマウスが大好きで、ディズニーランドに行ってミッキーに会うと大喜びです。「本当のミッキーに会った!」と思っています。だけど、大人の私はミッキーを可愛いと思ったり、演出がすごい!と感動したりすることはあるけれど、あの中にいる人は大変だろうなー、と思ったりするわけで、それは大人になれば、空想と現実の区別がついてくるからなのです。

だから、10代の後半になれば、空想と現実の違いは相当ついてくるはずです。でも、現実があまりにも居心地が悪く、辛いことばかりだと、そこから分離して空想の中で生きようとすることが人間にはできます。それが、「解離(かいり)」です。肉体は現実にいるけど、意識だけ別のところにいる、みたいな感覚があったり、今ここにいる感じがしなくなったりします。もっとも辛い状況を生き延びてきたひとの中には、解離性同一性障害といって、一つの肉体の中に、何人もの人格が内在している状況の人もいます。

生まれた時から解離している人は誰もいないので、解離している人は、そうまでして何とか生き延びようとしてきた、なんとかここまで命を繋いできた人たちと言えます。

だけど、現実にいられないので、今ここに留まっていることはできなかったりします。大人になって現実と空想の区別がしっかりつくようになるのは、空想の中にいて現実を生きようとすると、今の世界は危険だらけだからです。

本来は、危険から防衛するために人は成長してきて、そして、安全な中で自由に創造的に生きることが可能になります。

でも、生き延びるために、解離してきた人は、ある意味、生命的な危機を脱した後に、現実を生きるために危険にさらされる、みたいなことが起きます。

そうすると、「今ここ」に居づらくなるのです。

「今ここにいる」と「生きづらさ」について

「今ここ」は現実にあるからです。空想の中では、時間も場所も関係なく、肉体的な制約も何もありません。本当に自由だけど、それは、「絵に描いた餅」の自由でもあります。

生きている実感を取り戻して、今を生きることができないと、「生きづらい」と感じる人が多いようです。

私も、自分と分離している状態では、現実社会ですごく「生きづらい」と言う感覚がありました。他人にずっとコントロールされていた(自分の中に拠り所がないので、コントロールしてもらいたがっていたとも言えます)ので、自分で自分自身をコントロールできる感覚が欠如していました。

それでも、そうなるのは「自分が悪い」と思っていたし、「自分がダメだから」うまくいかないのだと、必死になんとか、「良い自分」「社会に認められる自分」に変わらなくてはと頑張っていたのです。

それは、キリがなくて答えのない世界です。

良い自分って、なんでしょう?
誰かにいい子と言われても、あいつは考えがないと批判されたりします。
他人に評価を求めている限りは、全方位を満足される人間になんてなれるはずはありません。
誰からも嫌われないで、みんなに好かれる人が存在するような気がしても、それは幻想です。空想の中でならいるかもしれないけど、現実には存在しない。

「社会に認められる」って、なんでしょう? 
経済的に自立して誰にも迷惑をかけず、ひとの役に立つのが社会に認められると思っていました。だけど、経済的に自立して、会社で働き、上司に評価されても、全然満足できませんでした。上には上がいて、もっともっと、頑張らなくてはいけないと駆り立てられました。毎日、終電まで働いて、ぐったり疲れて、どんなに身を粉にしても、自分は役に立っているだろうか?と言う焦りから解放されませんでした。

そもそも、「社会」なんて概念だから、その「社会」に認められるなんて不可能なことだったなと思います。

正直なカラダ

ある日、いつもは5分で歩ける駅までの道で、歩けなくなり、50分かけてなんとか駅のホームにたどり着いたのに、電車にどうしても乗れない朝がありました。

会社に行かなければとわかっていて、電車も動いているのに、どうしても、足が動かなくて、そこから一歩も動けなくなりました。
私の身体が、強制終了させてくれたのだと思っています。そのままでいたら、命を削るから、立ち止まれと。

それなのに、そうなっても私は身近な誰にも「助けて」と言えませんでした。

精神科医に、「ただ休んでください。何もしなくていいです。食べたいものを食べて。食べたくなかったら食べなくていいから。寝たかったら寝て。どんなに寝ててもいいです。寝られなかったらお薬出すから、それを飲んでとにかく寝てください。」と言われました。

そこからひたすら寝ていました。本当に、トイレと食事以外には、ひたすら寝て過ごしました。ただ寝ているだけの自分には、もう何にも価値がないと思いました。なんの価値もないのに、どうして生きているのか?と言うのが当時の最大の疑問でした。

そんな時を過ごして、今、なんとか生き延びています。そして、自分の子どもたちを見ていて思うのは、ただ生きているだけで十分な価値があるんだなということです。

価値は一つではなくて、いろんな側面があると思います。

存在としての価値と、行動の価値。Beingとしての価値と、Doingとしての価値。

私たちは、ついつい、行動の方にばかり目がいってしまうけど、Doingの素晴らしい人が価値があると思いがちだけれど、存在としての価値が、Beingが、Doingによって決められるということとは、イコールではないということを忘れがちです。

自己嫌悪の中で

認知行動療法という、認知に働きかけて気持ちを楽にするための心理療法があり受けたことがあります。ここでいう認知とは、ものの受け取り方や考え方という意味のことです。

人間は、自分の主観的な認知で物事を判断していて、強いストレスを受けている時やうつ状態に陥っている時など、特別な状況下ではそうした認知に歪みが生じてきます。その「認知の歪み」を客観的にみて、どのくらい現実と食い違っているか?ということを検証して、思考(考えや気持ち)のバランスをとっていくというものでした。

私は、いつも自動的に「自分を責める」思考が湧いてきて、自己否定(自分はダメだ、とか、どうせできない、など自分を否定すること)を繰り返しているということがわかったのだけれど、その時は、「今のままのあなたではダメですから変わりましょう」と言われているような気がしてきて、うまく行きませんでした。

そのくらい自己否定を繰り返していたのだと思います。

自分を否定し続けると、自分を嫌悪することになります。ダメな自分は愛される価値がないから。
実際、私は、自分が世の中で一番嫌いでした。10代の頃から自己嫌悪はひどかったけれど、20代、30代になってもそれは続いていて、ひどくなっていったようにも思います。

誰でも、自己嫌悪に陥ることはあると思います。

だけど、やっぱり、ずーっと四六時中、自分を嫌っているというのは、とてもとてもしんどいことです。嫌いな面もあるけど、いいところもある、みたいに切り替えたり、そういう時もあるけど、いつもそういうわけではないと思えたりして、自分を回復させていくことができるといいなと思います。それが、レジリエンス(自己回復力)と言われる力です。人間には誰でもレジリエンスが備わっていると言われていますが、それが自己否定や自己嫌悪がひどすぎるとうまく使えないということが起こります。

自分が嫌いという感覚でいる時、どこにいると思いますか?

大抵の場合、過去にいるんだと思います。過去の失敗や、うまくやれなかったと思っていること、ダメ出しされたこと、などを思い出して、私はやっぱりダメだった、こんなダメな自分は嫌い、と。

そういうとき、今ここの自分に戻ってこられなかったりするかもしれないと思います。

私の場合もそうでした。30代になっても、小学生の時にした失言を思い出して、自分を責めるようなことをしてしまったり、そんな自分だから、これから何をしてもダメだと思ったりしていました。そして、そんな風に自分を責めて、どうせ・・・と思っている自分のことも嫌悪してしまう、というループにはまっていました。


(長くなったので、次回に続きます)

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