前提を疑い自分の頭で考えることの大切さ

エグゼクティブコーチの安藤真由美です。今日は既存の前提や枠組みに囚われず、自分で考えることの大切さについて書いてみたいと思います。

思考停止に陥る仕組み

最近、『チ。地球の運動について』という漫画を読みました。天動説が一般的とされた時代に、地動説の正しさを信じて行動した人たちのストーリーです。

この漫画では、権力を持つ側が地動説よりも天動説のほうが都合の良いと考え、地動説を信じる人々を粛清していく内容となっています。人々はぺナリティを避けるために天動説を信じ(あるいは信じている振りをして)、権力側が作った枠組みの中で生きるようになっていきます。考えることを放棄し、思考停止してしまう訳です。

現代の日本に生きる私たちにも、同じようなことが起きているのではないでしょうか。
日本ではそもそも、批判的思考についての学ぶ機会が限られています。

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異なる意見を言うことは個人を否定したり批判したりすることではなく、ある議題について違う視点を提示しているだけです。しかし、日本ではこうした批判的思考について学ぶ機会が限られているため、ある議題についての反対意見がまるで自分自身を否定されたかのように受け取られてしまう場合があります。

「あいつムカつく」
「私に反対するつもりか!」
「空気読めよ」

こうした反応を受けると、それ以降は違うことを言ったら嫌われるのではないか、面倒臭いヤツだと思われてしまうのではないか・・・そんな思いから、権力を持つ側の言動に追従するようになりかねません。

「安心安全な場」の意味するもの

会議やワークショップなどで活発な意見が出るよう、議長やファシリテーターが「安心安全な場」となるよう尽力する場面が多く見られます。個人を攻撃したり否定することなく、参加者が発言しやすい場づくりを目指す訳ですが、ここでの「安心安全な場」については必ずしも理解が一致していないように感じることがあります。

「安心安全な場」とか言われると、逆に発言しにくくなるよね。
否定的なこと言って傷ついたとか言われたら困るし。

こうした行き違いを避けるため、議論を始める前に以下の2点について確認しておくと効果的かと考えます。

①「安心安全な場」での議論は、自分たちの目的や目標に向かってより良い解にたどり着くためのプロセスであり、そこで出された意見は個人の価値観や特性について論じるものではない。従って、否定的な意見が出たからといって、それによって傷ついたり怒りを感じる必要は全くないし、会議終了後にネガティブな感情を引きずることも無意味である。

②時間と労力をかけて会議を開くのだからこそ、忖度したり発言を控えたりすることは、より良い目的にたどり着くためのプロセスに全く貢献していないことと同義になる。管理する側は大変だと感じるかもしれないが、そう思うなら最初から会議を開かなければいいだけ。より良い解にたどり着くためには、多様な意見を様々検討する必要がある。

思考停止から脱却するために視点を変えよう

批判的思考のみならず、お金やジェンダーに関する知識など、生きるために大切なことを学べる機会が日本では少なかったりします。

「〇〇すべき」
「当然△△」 
「普通◎◎」

といった言い回しとともに、社会の規範に沿った言動が評価され、既存の枠組みや前提や疑うような発言は抑制されていきます。こうして、同質化が進み管理しやすい集団が形成されていく訳です。

「日本人は昔から〇〇だった」という言い回しも、実は明治以降に作られた制度に過ぎなかった、ということもあります。

前提や枠組みの真偽や妥当性については常に疑うことが大切です。長いものに巻かれて思考停止していると、短期的に楽に感じられたとしても、実は権力側に都合の良い枠組みの中で都合よく活用されてしまっている可能性があるためです。

当たり前とされてきたことが本当に当たり前なのか、新たな視点を身に着けて、色々な角度から見直していけたら見える世界も変わってくると考えます。

自分自身を開くことの大切さを意識する

私たちは自分の置かれた状況や対峙する人との関係性などにより、無意識のうちに自分自身を開いたり閉じたりすることがあります。

ここでいう「自分を開く」ことは、新たな事象や周囲の人々に好奇心を持つとともに、自分自身のことを開示して、主体的に交流をはかることをイメージしています。

自分自身の体調が優れなかったり何らかの理由で余裕がない場合、自分を開くことは難しくなるでしょう。自分以外の誰かに共感したり、一歩離れたところから俯瞰する(=メタ認知する)こともかなわないかもしれません。

まずは心身を整えて自分を開くことができれば、周囲との交流が深まり、自ずとさまざまな可能性が開く状況が期待されます。

眼鏡を外して新たな世界を見よう

私たちは様々なバイアスを抱えながら生きています。変化することに抵抗を感じる「現状維持バイアス」、自分に都合のいい情報ばかりを蒐めてしまう「確証バイアス」、家父長制や男女の役割分担に関する「ジェンダーバイアス」、などなど。

こうしたバイアスは、色のついた眼鏡をかけた時と同じ影響を及ぼすと考えられます。眼鏡の色に影響されて、世界の見え方が変わってしまっている可能性があるのです。

私たちは誰もが様々なバイアス(無意識のバイアス)を持ち、影響されていることを知る必要があります。そのうえで、自分の眼鏡を外したら世界がどんなふうに見えるのか試してみることが大切になります。

長年かけてきた眼鏡は、もしかしたら顔にめり込んで外しにくくなっているかもしれません。一人では外せない場合には、コーチなどのサポートをつけてもいいかもしれません。

誰かの靴を履いてみよう

眼鏡を外すだけでなく、誰か別の人の靴を履いたつもりで、その人の視点を想像してみると様々な気づきが得やすくなります。

特にマジョリティ側で生きることの多かった方の場合、マイノリティ側の気持ちや状況に思いが至らないこともありえます。せっかく支援の必要な人にサポートをしたつもりが、不用意な一言で相手を傷つけてしまうこともあるのです。(しかも支援を受けた側は遠慮して傷ついたことを伝えられない場合もあったりします。)  

本当の意味で様々な属性の人々に対して自分を開いていくために、眼鏡を外したり靴を履き替えたり、色々イメージしながら取り組めたら素敵ですよね。

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