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幸子さん

幸子という名前だった。
幸せになるようにと、親がつけた。

地方の高校の商業科を出た幸子さんは、外資系企業の現地採用として就職した。

その後定年まで勤めあげ、途中何度も居住している市の高額納税者番付に載る程度に収入があった。

おしゃれも遊びも興味がなく、ただ会社と自宅を往復するのみの毎日を送っていた。使わないお金がたくさんあったので、株を買ったり、不動産を買った。
もともと収入がそれなりにあった上に不就労収入もかなりあり、いわゆる独身貴族、お金持ちだった。

外にでないので出会いがなく、40歳を過ぎてからお見合いして結婚した。

相手の男性Tは、幸子さんと同じ歳で定職を持たず毎日パチンコへ行ったり釣りをしたりして、親の遺産を食い潰している江戸時代から続く名家の長男だった。

Tは大酒呑みで、飲むと必ず粘っこく絡んでくる。そういうところが幸子さんの親族には嫌がられていた。

幸子さんの弟Mは、父から会社を引き継いで社長をしていたので、Tを営業として採用し、そのままいけばそれなりの役職にもつける予定だった。

結婚して1年目は、穏やかに過ぎていった。幸子さんはそれなりに幸せそうに見えたし、少し身なりも構うようになっていた。

ある時、幸子さんが泣きながら姉のところにやって来た。
Tの浮気が発覚したのだ。興信所で調査依頼をして確認したとのこと。

離婚したらええねん!と親も姉弟も息巻いて大騒ぎになった。
Tは会社を追い出された。

3ヶ月くらい揉めたあと、Tはふらりと家に戻り、ぶらぶらとパチンコや釣りをして過ごすようになった。

Tは、お金のある幸子さんのヒモのような状態になっていた。

二人には子どもがなかったので、養子をもらおうとして里親に申し込んだ。

2人ともの年齢が45歳を越えていたこと、Tに職がなくぶらぶらしていること、幸子さんが家にいられないことなど、さまざまな理由があったとは思う。
幸子さんたちは審査を通過できず、里親にはなれなかった。

それから何年も、浮気が発覚し、幸子さんが泣き叫び、よりを戻し、また浮気をしてよりを戻しという状態が続いた。その間Tはずっと働こうとはしなかった。

父親が亡くなった。
その葬儀の席でいきなり遺産相続の話が出た。大声で怒鳴るMと泣き叫ぶ幸子さんに、その場にいたほとんどの人が唖然として言葉を失った。

父の遺産をすべて会社に寄付すると決めたMの強引なやり方もどうかと思うが、泣き叫んで遺留分を取ろうとする幸子さんも大人げない。と参列者たちは眉をひそめた。

だが、幸子さんにとってはお金はとても大切なものだった。お金だけが信じられるものだった。なりふりかまっていられなかったのだ。

母の「うるさい!黙れ!」という泣き声でその場は一旦おさまったように見えた。
問題は解決せず、その後も遺産相続手続きの一切が終わるまで、幸子さんはしょっちゅう姉に会いに行き「お姉ちゃん、何とかして!」と言い続けていた。

それから7年後、母も亡くなった。
幸子さんは、その葬儀の時にも泣きわめき遺産相続の権利を主張した。

幸子さんは働いてお金をためて、不就労所得もあり、経済的には何不自由ない暮らしをしていたし、どうしてそこまでお金がほしいのか誰にもわからなかった。

2度目の相続修羅場でも、幸子さんはMにねじ伏せられ、結局母の遺産も父の時と同様Mの会社で使うことになった。

それ以来、Mと幸子さんは険悪なはずだった。

だが、Mの妻Yさんは幸子さんを何かと気にかけ面倒を見ていた。旅行にいこうと誘ったり、お料理やフラワーアレンジメントのお教室にも一緒に通っていた。

Yさんはできた嫁だったから、祖父母亡きあとMの姉弟の「親もと」であろうとし、一番問題が多かった幸子さんに心を砕いていた。

そうこうしているうちに幸子さんは定年を迎えた。
その頃の幸子さんは、ジムで体を鍛えることに夢中になっていたので、このまま健康的に歳を取っていくのだろうと皆が思っていた。

ところが、アルツハイマー認知症が発症した。

認知症はどんどん悪くなり、幸子さんは車の運転をして、物損事故をすることが多くなった。

そんなときは、必ずYさんが後始末をした。

Yさんにしてみれば、義姉の行動が世間様にご迷惑をおかけしているので、誠心誠意できるだけのことをするという部分も大きかったが、とんでもないことをしでかして、Mの会社に影響が出るのが嫌だという部分があったようだ。

幸子さんはYさんを頼り、Yさんは幸子さんの面倒をみる。という関係が続き、最後には面倒をみることができないほど認知症が進み、介護つきの有料老人ホームに入った。

この時、夫であるTは自分が介護をすると主張した。だがMは強引に入所を決め、幸子さんの財産管理も、後見人としてMがすることになった。

認知症はずいぶん進行していたので、ほんとか嘘かはわからないけれど、幸子さんはそれに感謝し遺言状を書いた。死後残った財産はすべてMとY、その子どもたちに分配するというものだった。

幸子さんは、家から100キロ以上離れた、知り合いの全くいない土地の施設で暮らすことになった。認知症は進み、経口摂取もできなくなり、どんどん弱っていった。

夫のTは、毎週のように幸子さんを見舞いにいった。まるで荒れていた夫婦生活を取り戻すかのように、優しくさすったり車椅子で散歩に連れ出したりしていたらしい。

残暑の厳しい日差しの中、幸子さんの家から漂う異臭をご近所が警察に通報したとき、Tの腐乱した首は胴から離れて床に転がっていた。

検死の結果、およそ1ヶ月前に首を吊って亡くなっていたことがわかった。

遺書には「お金がないので死にます」と書いてあった。

葬儀はなかった。

幸子さんにそれは伝えられず、わずかに意識が戻るとき、施設に来ないTを探し求めていたという。

そんな幸子さんも、Tの死後3ヶ月を待たずあとを追うように亡くなった。幸子さんの葬儀は実の姉や弟も出席を許されず、Mの家族だけでひっそりと行われた。

幸子さんは、親に幸せであれと願いをこめてその名をつけられた。

幸せだったのだろうか。

幸せだったという人もあれば、かわいそうな人生だったという人もある。

本当のことはもう誰にもわからない。

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