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あるお年寄りの話

「これで終わりか!私の人生こんなもんか!」

彼の祖母は最期にそう叫んで力尽き、お亡くなりになった。30年近く前のことである。
彼はショックを受けていた。
婚約者として同席していた私も、かなりショックだった。

おばあさんは優しい人

おばあさん、遊びに来ましたよ。
私が声をかけると、にこにこして入り口まで迎えにでてくれる。

○ちゃんが来るって聞いたから、玉露買っておいたの。
和服で迎えてくれるおばあさんは、そう言って美味しいお茶を淹れてくれた。

持っていった京都のお菓子を食べながら
京都はいいねぇ。もう一度行ってみたいわ。
私は哲学の道が好きだったのよ。桜の頃はほんとに綺麗だしね。
そんな他愛もない話をした。

透き通るほど白い人で、このまま消えてしまうんじゃないかと不安になったものだ。
とにかくお上品で気配り上手な、優しい素敵なおばあさんだった。

そんなおばあさんの最期の言葉が、あの絶叫である。
衝撃は大きかった。

おばあさんは我慢の人

祖母と母の確執の中で育った私は、祖母から愛情をもらえなかった。「あの憎らしい女の子ども」だから。

彼やその兄弟たちがおばあさんの優しさを自慢するとき、心底羨ましいと思っていた。
その中に嫁として入れば、もしかして私も優しくしてもらえるかも?と期待してもいた。

期待通りのおばあさんの優しさは私にとって新鮮で、大切にしたいものの一つになっていた。
住環境が悪いことを彼に訴えたりしたものだ。

母屋を娘夫婦に明け渡し、蔵を改造した薄暗い部屋に住んでいた。
窓はあったのだけれど、隣家の塀が5cmくらいのところにあったので、光は僅かしか届いていなかった。
換気用だった。

約8畳の部屋には北側にシャワーとトイレ、1畳あるかないかの小さいキッチンがついていた。
部屋の中には小さな鏡台と時々映らなくなる18型のブラウン管テレビがあり、電話もなく、おばあさんが嫁入りの時に持ってきたという小さい箪笥が2棹あるだけだった。

好んであそこに住んでいると聞いた時には、まさかと思った。

手紙

四十九日の法要にも私は呼ばれた。
おばあさんの住んでいた蔵で、彼の兄から手紙を見せられた。

そこには、震える文字で
「ここから逃げたい」
「一人になりたい」
「死にたい」
などと書いてあった。

お兄さんは涙ぐんで「当たり前やな」と言った。
彼は泣いていた。
私も泣いていたが、たぶん彼とは意味が違っていただろう。

私はかわいそうだと思って泣いた。
彼はひどいことをしたと後悔して泣いた。

衣食住

おばあさんには、娘が3人いた。
長女はおばあさんの蔵の、窓を塞いで塀を立てた隣人だった。
次女は婚家を飛び出し、男と東京へ逃げて音信不通だった。
三女は彼の母である。

三女家族と同居していたが、子どもが成長し部屋が足りないと言われ蔵に移った。

夕食を一緒にとっていたのを見たことがある。
でも、小さなキッチンはそれなりに使い込まれていたので、蔵で食事をすることも多かったのだろう。

お風呂は母屋に行ってた。
残り湯のことが多かったという。

私が行くときには着物を着ていることが多かったが、普段は着古した洋服を着ていた。肘にはつぎあてもあった。新しい服を買うお金がなく、私を迎えるために和装していたことを知った。

僅かな年金は三女が生活費として管理していて、お小遣いをもらっていた。そこから孫のおもちゃを買ったりお小遣いを出してやったりしていたのである。
私に玉露も買ってくれた。

ひっそりと息を殺すように生きていたおばあさん。
そういう話をあとから聞いて、また泣いた。

思えば、自分の祖母も晩年は似たようなものだった。

戦争を知る世代

おばあさんも私の祖母も戦争を生き延びた世代だ。
物がなく我慢我慢の生活をしてきて、余裕ができた頃には世代交代。

女が強い時代になって、自分たちのように「家の中での最下層」という立場ではなくなった。
嫁が来て自分の価値観を押し付けて嫌われる。
娘であってもその価値観は嫌われる。

生きていくために、また我慢をする。
我慢以外にも、たぶん方法はあった。
でも、そうできなかった。

生きていくことに不器用。
そう言ってしまうのは、何でも好き放題に言ってしまう私でもさすがに憚られる。
選択肢は彼女たちには見えないのだから、ないのと同じだ。



私は戦争の話をするお年寄りはあまり好きではない。
どれだけの我慢をしたかとか聞いてもピンとこない。
くどいし。最後には「最近の人は」と批判になることが多い。

それでも、そんな時代を生きた人が身近にいたことを忘れずにいたいと思う。

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