夏が揺れている。昨日の夕刻、ふとそんな事を思った。九月に入り朝晩が幾許か涼しくなったからだろうか。ついこの間まで其処彼処に我が物顔で蔓延っていた夏が、自身の最期を悟ったかのようにふらりふらりと揺れている。昨今、日本の夏は随分と長いように思われるけれど、それでも、この小さな島国から去る日が来る事を、彼は知っているようだ。昼間はかんかん照りの合間に豪雨を呼び、まだまだ此処から動かないぞという風だけれど、夜の帳が降りる頃にはすっかり、その勢いを失ってしまう。次の季節にその座を譲る事を躊躇っているかのような夜の涼風は淋しい。彼が暮れて行く淋しさが、次の季節を呼び覚ます。夏が揺れている。
 そんな彼には申し訳ないと思うのだけれど、私は殊に、秋という季節が好きだ。曖昧でほの暗い、良い季節だと思う。言い知れぬ淋しさや切なさを持った奥深い季節を、私は他に知らない。空調の効いた涼しい部屋から空を見ると、そこにはまだ夏が居て、お前の思う通りにはさせまいとでも言うように、燦然と光を放っている。好きにするといい、君の好きにするといい。どうせもうすぐ君は居なくなるのだから、思い切り君という季節を燃やし尽くせばいい。私が言わずとも、彼は端からそのつもりなのだろうが。
 令和二年の春は不穏だという話を、少し前の手記に記した。新型肺炎の世界的流行は未だ収束しない。季節の内側で暮らす私たちは今日も、そんな不穏の渦中にある。夏がこの国を去る時も、きっと私たちはこの不穏に取り残されるだろう。だからこそ言いたい。そのうち、またね。君と再びこの国で出会うその日が穏やかである事を願って。(令和二年九月三日)