「サ行の恋」第1話
1 背緒くんの「せ」
なーなー、背緒(せのお)君の「せ」って完璧と思わん? 中緒でも横緒でもなく背緒ってのがもうっ、もうっっ、て感じやない? 人に片思いされるために生まれて来たみたいな名前。響きからしてもう切ない。せのおの「せ」は切ないの「せ」。
発音するたびに思い浮かぶやろ、白い体操服に浮かぶ肩甲骨。ダウニーの匂いがするあの痩せた背中。うち、あの体操服の毛羽立ちに生まれ変わりたかったわ。きれいなんよな毛羽立ちさえも、透き通っててさ。ほんで漢字な。「背緒」の字面な。これが妹尾やったらどう? 話完全に変わってくるやろ。ほんでな、「緒」もまた重要やねん。わかるやろ? 背緒と背尾、どっちがええと思う? 緒はやっぱり切ない感じするやん。背緒くんの、手の届かなさがよく出てるやん。背尾ではこうはいかん。いや決して、保育園のとき背尾くんっていう鼻水で鼻の下がびがびやった男の子がいたからってわけじゃないで。個人的な思い出とは関係なしで、事実として、「背緒」は完璧やろ。
なあなあ、もしもやで? もしもの話やけど、背緒君が家来ることなったらどうする?
えー、ムリムリムリ。家、超汚いもん。ボロボロやもん。私の部屋直で来てくれるんならまだどうにか取り繕えるけど、背緒君があのギィギィいうタバコ臭いエレベーターに乗ること考えたら、ぞっとする。謎の灰色のカーペット敷いてあるし。
でも、背緒君が家来るねんで? 二人きりになれるねんで? こんなチャンス、逃してええんか?
うーうー、わかった! 外階段つけるわ。私の部屋の窓につなげて。背緒君が来るんやもん。アパート一棟リフォームするわ。賃貸やけど。私、こういう時のために残業してお金貯めてたんやと思うわ。
お、やりおるな。じゃあ背緒君とデートできるんやったら、いくらまで出す?
一万円!
え、安い安い、君の愛はその程度か。
あたし……五万出せる。
おおーっ!
そんなことできゃぴきゃぴ盛り上がってたんが、高校卒業してから十年も経った、二十八歳のお正月帰省のときやったんやから、やばい。なおなおとうちは独身やったけど、たあやんなんか新婚さんやってんから。十年経とうが、結婚しようが、背緒君の話をすれば、うちらはいつだって、青春に戻れた。せのおの「せ」は青春の「せ」。
それからさらに十三年経って、うちらは四十一歳になった。そして今、なおなおとうちは背緒くんのインスタグラムにDMを送ろうとしている。どっちのアカウントから送るかで小1時間小競り合いをして、結局じゃんけんで負けたうちになった。
――おひさしぶりです。覚えてますか? 高校二年のときに同じクラスだった西條朋美です。一度、結婚して中園朋美だったことがありました。
そう、うちが打つとすかさず、
「ちょっと待って。わざわざ結婚歴書く必要あるかな? それに、覚えてますか、とか重い気する」
なおなおからツッコミが入る。
「え……。だって、あれ以来、ずっと独身で背緒君のこと思い続けてるって思われたら、コワない? 他の人と一度は結婚してたんやって思ってもらったほうが安心して話聞いてもらえるかなって。てか、こういうとき、覚えてますか?っていうやん。重たいとか、それはこっちの熱量をなおなおが知ってるからであって、背緒君にとってはなんてことない定型句のはず」
「あ、そうか、そうかも。ごめん、背緒君に言葉が届いてしまうとおもったら、もうなんか……」
「わかる、わかるよ、でもやらな。またメッセージで小一時間かかるわけにはいかんのや。たあやんのために」「そやな」
なおなおも真剣にうなずいて、スマホの小さな画面を二人でのぞき込む。
「ええと……、『橋本貴子って覚えていますか? 彼女がいま』」
「待って、『覚えていますか』が二回出てきて、西條思い出したと思ったらつぎは橋本かいってならへん? しかも中園朋美も出てくるし。いろんな名前出てきすぎじゃない?」
「うー、そうやな。えっと、」
「ペライチでいこ」
「……じゃあ、『こんにちは。高校二年のとき、同じクラスだった西條朋美です。突然ですが、今度お茶しませんか。私と、中田奈緒美さんと、橋本貴子さんの三人で。というのも橋本さんが……』」
指が止まる。なんていえばいいんやろう。なおなおはうちの手からスマホを取り上げて、続きを打った。
――闘病中で、懐かしいみんなに会って元気を出してほしいんです。
背緒君は幻やない。卒業してからもSNS上にはいつもおった。最初はフェイスブック。98期生でつくったコミュニティがあって、時々バスケ部の男子とか、背緒君の3年生の時の理系クラスの女子とかが、「久しぶりのみんなと」「相変わらずのイケメンww」なんて背緒君をタグ付けしてアップする。背緒君は色素が薄くて、酔うと顔が真っ赤になるタイプらしく、いつもそこには赤ら顔の、けどちっともさわやかさが変わらない、背緒君が笑ってた。そこから恐る恐る彼のアカウントを辿ると、友達が242人もいた。42人だったうちは「友達になる」ボタンを押せるはずもなく、だれかがタグ付けしてくれるのを待つくらいしかできへんかった。
それから時は流れて、インスタグラムが流行り出した。おしゃれな背緒君はさっそく開設し、朝のジョギング中の空だとか、新しく買ったスニーカーだとかを載せる。だれかとしょっちゅうご飯行ったり旅行行ったりして、グループ写真を投稿するから、あのままおしゃれであのまま爽やかな背緒君をうちらは月イチくらいの頻度で拝めていた。彼女との2ショットはない、匂わせもない。だって背緒君はみんなのもんやもんな、と怖いことをうちらは言い合った。でもある日、なおなおがすごいのを見つけてきた。
「これ、背緒君の彼女のアカウントやない?」
美肌アプリで真っ白に飛ばされた決め顔のギャルのアイコンで、アカウント名は「chisapon-millionlove」。プロフィールには「@senoooo0805のカノジョさんです♡とっちゃだめ♡」と書いてある。ショックだった。背緒君がこんなバカっぽい女の人と付き合っているのが。
高校の時、バスケ部と写真部を兼部していた背緒君は、一年のときは写真部の二年の先輩と付き合っていて、二年のときには、バスケ部のマネージャーで後輩のみいなちゃんと付き合っていた。みいなちゃんは学校一の美人とされていた。
みいなちゃんとの付き合いは長く、大学卒業までくっついたり離れたりしてたらしい。みいなちゃんがCAになってからは、完全に別れた(らしい)。
みいなちゃんは真っ白な肌にすらりとした手足で、えくぼがむっちゃかわいかった。美人やけどそれを鼻にかけていなくて、コンタクトレンズが目に合わないのか、時々眼鏡で登校して恥ずかしそうにしているのもよかった。二人はお似合いやったし、それでこそ背緒君、と思ってた。
でも、そのギャル彼女のアカウントを見ると、布団からおでこが出ている背緒くんとか、ペアリングで重ねた手とか、ぞわぞわする写真がいっぱい載ってる。
「どうしたんやろう、背緒君」
「背緒君もただの人やったってこと?」
「そんなことない、うちらの背緒君はこんなもんであるはずがない」
うちらはsenoooo0805よりchisapon-millionloveを検索しては、スクショを撮ってグループLINE〈SMK〉(背緒君を愛でる会)で報告し合った。
「見て!『借りたパーカー、あったか~い♡』やって。また匂わせてる」
うちらはゲロのスタンプをそのたびに送り合った。いろんなキャラのゲロのスタンプで画面は埋められていき、他のメンバーに羨ましがられるために、新作ゲロスタンプを仕入れたりした。
そのうちに、chisapon-millionloveのメンヘラが加速していって、真っ黒な画面に白い文字で、「もうだめかも。捨てんといて」とか、「着信音、うる星やつらの主題歌に変えたった」とか、七転八倒し始めた。
そしてある日、プロフィールの「@senoooo0805のカノジョさんです♡とっちゃだめ♡」の文言が消え、過去の匂わせ投稿も全部消去された。「敵ハ自滅セリ」と〈SMK〉に投稿し、うちらは喜んだもんやけど、一方で、人間をこんなにもみっともなくさせる背緒君の魔力に、怯えてもおった。
背緒君はそのあと、自分のアカウントをまったく更新せんくなった。あんなにタグ付けされていたのに、それもパタリと止んだ。その状態が半年ほど続いたお正月帰省でなおなおが「まさか、chisapon-millionloveに刺されてないよね?」と言い出した。
「まさかぁ……millionloveていうてんのに?」と、たあやんがげそをマヨ七味につけながら言う。
「いや、ありえる。chisapon-millionloveならあり得る」うちはむぎゅむぎゅとたこを噛みながら言った。
「なんか聞ける人おらんの? 背緒君と同じバスケ部の人とかさ」
「愚問」
「人に聞く前にまず己に問え」
うちらは、それぞれがはみ出し者だった。男友達はおろか、女友達すらいなかった。うちらは過酷で気鬱で気だるく孤独な孤独でカ行の十代を、背緒君との一瞬の邂逅だけを糧にして、辛くも生き延びたのだった。
〈つづく〉
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