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それは「仕事」なのか?

現在、毎週実家に平日2泊しています。いまどきはやりの待機児童、区内の認可当然のごとく入れず、かつ認可外もがんがん認可になってきていて、要は認可に落ちるともうどこも入れない、という状況下、たまたま実家の近くの認可外の保育園に友人のつてで入れてもらえることになりました。しかし自宅から通うと朝と帰りのラッシュ時の電車を乗り継いで45分、これは無理だわ、ということで週に2回は実家を拠点にさせてもらい、うきうきベビーカーで歩いて通っています。

つまり、もう何年も一緒に住んでいなかった実家の母と、週の2.5日を共に過ごすようになりました。そして私は華道家として活動しながら、その他執筆やら講義やら講演やらやって、しょっちゅう東北に行っている。昭和のThe専業主婦の母から見ると、意味不明な日々を送っている、というわけです。講義をしてくるというから何を教えるのか聞いてみると「いけばなを使ったチームビルディングをね...(もごもご)」「デザイン思考というのがあって...(もごもご)」「アートを使ったワークショップを...(もごもご)」など、話すほどに母の頭から出るはてなマークが増大していくのが見えます。

いろいろやっている中で「ハーバードビジネスレビューの編集のお手伝いをしている」というのだけはわかりやすいらしく、それが私の「ちゃんとした仕事」だと認識している様子です。

そして、日中私が実家から外に出かける時に、こう聞きます。「今日は仕事なの?」

母の中にはくっきりとした「仕事」と「それ以外」があります。そして、「仕事」とは大変なもので、だから家族がサポートする必要がある、という感覚です。夫は昭和の商社マン(20年前に他界)、息子は現代に生きる「官僚たちの夏」のようなモーレツ官僚、という中では、当然の感覚だと思います。

しかし、私にとっては、そこに境界がないのです。ハーバードビジネスレビューの編集会議も、いけばなのレッスンも、友達とのランチも、若者の人生相談も、ケースを書くためのインタビューも、締め切りに追われてひーひーの執筆も、大学での講義も、フラメンコも、どれも「自分にとって大切なこと」という、それ以上でもそれ以下でもない。

もし「仕事」を「収入が得られるもの」と定義したとしても、なかなか切り分けは難しい。友達とのランチは、それ自体は「仕事」じゃないかもしれないけど、そこで話が盛り上がってなんかプロジェクトを一緒にやるようになったり、紹介された先で「仕事」になったり、ということもよく起こります。あと、IKERUと称してやっている自宅でのいけばなのレッスンは、収入のためにはやっていませんが、お代はいただいています。となると、レッスンのための家の掃除だって、花屋さんめぐりだって、「仕事」です。

さらに言えば、どんなテレビを見るのか、どんな本(主に漫画ですけど)を読むのか、歩いている時何を見るのか、どれくらい寝るのか、電車の中で何をやるのか...すべてが自分を形作るものであり、その自分というもので社会に向き合い、そこから時々お代をいただいている、ということだから、生きることそのものが仕事といえば仕事です。そして「遊び」が「自分にとって楽しいこと」なのであれば、私にとってすべての仕事は遊びです。

ということで、最近は、例え、友達との純粋なランチだったとしても、出かけるときの母からの質問には「うん、仕事だよ(遊びだけどね)」と答えるようにしています。




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