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本の痕跡

図書館で本を借りていると、さまざまな痕跡を持った本と出合う。
ページの角に折り曲げられた痕のあるものや、蛍光マーカーで線が引かれているもの。迂闊にもボールペンで感想が書き入れられているもの等々、多くの人の手を行き渡ってきたことによって生じた痕跡をとどめた本と、ときどき出合うことがある。

きっと、借り物である本を読んでいるうちに自分の本だと錯覚してしまい、つい、普段本に対して行っていることを無意識のうちにしてしまったのだろうと思う。

そうしたページに出合うと、「あ」と思う。
そして少しだけ、想像してしまう。この人にとって、この部分、重要だったんだなあ、とか。この線を引いたの、受験生なのかしら、とか。この人、こういうのを気にしている人なのかもしれない、とか。いつぞやその本を手にした人のことを勝手に想像してみたくなってしまうのである。

けれどもやはり図書館の本は公衆のものであるので、本来、そうした行いはよろしくないとも思っている。ついうっかり、なのだろうけれども、あとでその本を読む人のことを考えれば、図書館の本を途中で勘違いして私物化しないようにとも気を引き締めなおす。

それに、本の出し入れがあるたびに司書さんは本の状態をくまなくチェックし、『汚れアリ』とか、『染みアリ』とか、『折れ曲がりアリ』とか、見つけた痕跡を小さなシールに書き入れて貼ってくれるわけで、そうした作業はなかなか面倒な作業だと思うからこそ、無駄に手を煩わせないよう、借りてきた本の取り扱いには日頃から注意したいとも思うのである。

しかし先日、借りてきた本のなかに「これは…」と思う痕跡のある本をみつけた。

文中、とある作家の名前が登場するのだけれど、どうやらその作家の名前の漢字一文字が誤って表記されていたらしく、その部分がわざわざマーカーで囲まれ、その横に正しい漢字が書きこまれていたのだった。

どうやらこれは、これまで見てきた痕跡と趣が異なるぞ、と思った。というのも、これまでのものはうっかりによる痕跡だったけれど、明らかにその書き込みには意図的なものが感じられたからだった。きっとこの本に書き込みをした人は、その漢字を間違われた作家に対する敬意があったのかもしれないし、あるいは校正の見逃しを正さずにはいられなかったのかもしれない。

いずれにしても、これは己のためにというよりは、これから読む人のために発信されたものであるように思えてしまい、だからだろうか、私はその痕跡を見たとき、思わず「許す!」と思ってしまったのだった。って、もちろん自分は何様でもないのだけれど。

でも実際、その本の裏表紙には書き込みの指摘を示すチェックシールは何も貼られておらず、ということはつまり、司書さんも同じくこの書き込みについては「許す!」と思ったのかもしれない。なんて、それは自分の勝手な想像だけれど、でも、もし自分が司書の立場でこの書き込みに気がついたなら、特別見逃してやるかもしれないなあ、なんてことをつい思ってしまったのだった。

―と、こんな具合に、図書館で借りてくる本のなかにはときどき、さまざまな痕跡をとどめた本が潜んでいる。


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