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愛想なくても愛あるマフィン屋さん

好きなマフィン屋さんがあった。
店主のおばさんがひとりで切り盛りしている小さなマフィン屋さんだった。
数席のみのカフェも併設されてあって、そこで焼き立てのマフィンを食べることができた。

店主は、でも、あまり感じが良いとはいえなかった。
長く通っていたけれど、笑顔らしい笑顔をみたことは一度もなかったかもしれない。一言でいえば、無愛想なのだ。怒っている?と訊かれたこともきっとあったかもしれない。そんな接客には不向きに思える表情だったけれど、彼女の作るマフィンはとてもとてもおいしかった。

定番のマフィンに加えて、季節ごとに入れ替わるマフィンがショーケースのなかに並ぶ。お店を知った当初はまだそこまで周囲に知られていなかったのか、仕事帰りに立ち寄ってもマフィンはたいていいくつか残っていたけれど、次第にそのおいしさが評判となったのだろう。急いでお店に駆け込んだときにはもうマフィンはすべて品切れになっていることが増えていった。

森小屋のような小さな店内は居心地がよく、私はそこでマフィンを食べながら書き物をするのが好きだった。店主は接客をしないあいだはカウンターの向こう側にいつも座っていて、いるのかいないのか、その姿はよく見えないのだけれど、お店を守っている気配だけは不思議と伝わってきた。

たまに電話が鳴る。なにかの勧誘の電話らしい。店主の口調は結構厳しく、容赦なくお断りしている。またべつのときには勧誘かなにかの宣伝をしにきた人が直接店に訪ねきたこともあった。そんなときも店主はビシッと断っていた。かっこいいではないか。その勇ましい姿勢から、店と客を守る気概を感じとることができた。

それまで私は不愛想な接客が苦手だった。無愛想な接客をされると気分が悪くなって、もうこの店に行くことはやめようと思うこともあった。けれどこのマフィン屋の店主を見ていたら、無愛想にも種類があるのだな、と思った。あからさまに不愉快な感情をのせた無愛想は気分を害されるけれど、単純に愛想を振る舞わない(あるいは愛想よくするのが苦手)がための無愛想は、案外、気分を害されないんだな、と思った。たんにその人は自分というものに正直なだけなのかもしれない。

げんに店主は無愛想ではあるけれど、接客が雑なわけではない。常連さんもたくさんいるし、仕事だって丁寧にしている。それになによりも、彼女が作るマフィンには愛がこもっていた。素朴で、優しい甘さで、ふんわりしていて、何度でも通いたくなるおいしさがあった。

ごちそうさまでした、と帰り際に声を掛けると、ありがとうございました、と店主はいつも返事をくれた。とくべつ笑顔をみせるわけではなかったけれど、その声音にはほんのり優しさが含まれていて、彼女なりの感謝の気持ちが伝わってきた。

とても大好きな店だったのだけれど、残念ながら、今、そのマフィン屋はもうない。いろいろ忙しさ等が重なってしばらく行けない時期が続いてしまい、あるときようやく行ける!と思って意気揚々とお店を訪ねてみると、知らぬ間にお店はもうなくなっていたのだった。閉店の知らせがお店の前に貼ってあって、そのときショックで立ちすくんだのを覚えている。

本当に、とてもとてもおいしいマフィンだった。今思い出しても、ああ、また食べたいなあ、と心の底から思ってしまう。店主はいつも無愛想だったけれど、表にみせない分の愛をきっと、マフィンにしっかり注いでいたのだろう。


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