見出し画像

幸せはたいらなところに

幸せって、たいらなところにあるのかな、と思う。
たとえば生きていくなかで、嫌なこと、マイナスに感じる要素がなければ、基本、人って幸せな生きものではないのかと。それはつまり、凸凹でいう、凹がない状態。凹は、人によってマチマチだと思うけれども、たとえば人間関係であったり、健康問題であったり、将来やお金のことであったり、不安等をつよく感じてしまう何かであって、それらがあると、本来たいらである立ち位置に穴ぼこがあいて、足元がぐらぐら不安定になってしまう。そうなると、幸せを感じにくくなって、幸せからちょっと、遠ざかる感じになるのかもしれない。

でも凹がなければ(あるいは凹として捉えなければ)、人って案外、たいらな場所にいるだけで充分幸せなのかもしれないなあ、なんてことをときどき思う。

もちろん、それを平凡と呼んで、それは退屈だ、と感じる人もいるかもしれない。たとえば自分は平穏好きで、刺激的なものをそんなに欲していないので、たいらな場所にも幸せを感じるけれども、もしかしたら刺激好き、あえての冒険好きの人なら、たいらな場所では満足できないこともあるのかもしれない。

でもやっぱり、押しつけがましくいえば、人って本来、特別な何かがなくても、凹がなければそれだけで充分幸せなのではないのかな、と思ったりする。なので、そう考えると平凡な日々のなかで受け取る凸部分というのかプラス要素って、それがささやかなものであっても、幸せの二乗というのか、さらなるハッピーともいえる気がする。

私事でいえば最近、好きなチョコレートを特売セールでめちゃくちゃ安く買えたこと、とか、カフェに入ったら店員さんが可愛いハートのラテアートを作ってくれたこと、とか、良い睡眠で朝までぐっすり眠れたこと、とか、そんなことも実は結構な幸せなことかもしれないなあ、なんてふうにも思えてくる。

でも案外、そういうプチハッピーって、生活のなかでスルッと通り過ぎていくような気がする。でも、そのスルッと過ぎていくこと自体が、幸せであることの証なのかもしれない。皮肉だけれど、凹があって初めて、たいらな場所の幸せを知る場合もある気がするから。だからきっと、凹も悪いものではない。どう捉えるか、あるいはどう対処するか(どう活かすか)で、いかようにも変容する、そんな気がする。

とはいえもちろん、人間なので欲はありますので、大きな凸、大きなプラス部分があるのはとても嬉しいし大歓迎なのも本音。良いことや大きなハッピーは無限にあっても良いと思う。でも、そのためにもまずはたいらな場所の幸せを知ること。それがいしずえとして、大事なことなのだろうなあと、歳を重なるごとにしみじみ思う。

そういえば前回、何にもつけないお米のおいしさについて書いたけれども、それとも似ているような気がする。ごはんのお供をのせたご飯はおいしいけれども、でも何もつけないごはん(と自分は呼んでおります)をじっくり味わってみると、お米本来の甘さを感じられて、しみじみおいしい。たいらな場所って、何もつけないお米みたいなもので、そのままですでにほんのり甘さのあるものかもしれない。派手さはないけれど、しみじみした滋味深い旨味がある。それに気づけるかどうか。幸せって案外、そういうことかもしれないなあ、なんてことを、ときどき、ふっと思うのです。


お読みいただきありがとうございます。