見出し画像

次第次第に理解する

インドのヴェーダの勉強は何周もするとしだい次第に理解が深まってくるそうだ。一周目は「なんだかよくわからん」なのですが、何周かしているうちに「なるほど」となってくるのです。サンスクリット語などもそうなのだそう。だから諦めそうになっても毎日10分でもいいから触れるといいのだそう。コロナになったり手術をしたりで時間ができたので(時々体が痛くなる時には長く勉強はできなくなるけれど)、時々教えながら勉強を続けています。

ヴェーダンタでは私たちは「行い手でではない」ということを学びます。行い手ではない?はてな。となりますよね。だって、行動しているし、自分で決めて自分でやって、自分でご飯を食べて・・・。行いをしているように思える。でも待てよ、と。イーシュワラ(宇宙)から考えると行いをしているように思えても、もたらされているというかんじ。

時々グラミー賞を取るとか、アカデミー賞を取るとか、人類においてすごい発明をする人が「これは私がしたのではありません。」とスピーチしているのをみたことがありませんか?確かに、私がしたのだけれど、私がしたのではない、誰かの役に立ちたいという願いがそうさせた、とかみんなの願いがもたらしたものみたいな意味合いもあるかもしれません。その時はイーシュワラがダイレクトに反映されたと言うことになります。その時は行い手という観念はもうすでにないとも言えますよね。

生まれてきて小さい頃などは、特にテレビとかいまならyoutubeとか周りの環境などで「好きかもしれないもの」を選びます。だけどそれって本当に好きなものというよりは、みんながそうしてるから、とか周りがそうしているからだったりします。だからその願望って本当は願望ではないかもしれないですよね。私たちには自由意志があるというけれど、東京に行くとかアメリカに行くとかそれくらいの選択はできるけれど結局どこに行っても習性は変わらなかったりしますよね。同じことをしているのです。

(もちろん、環境によって変化することはあるのでやりやすかったりすることってあるかもしれません)だんだん年齢を重ねると結局同じことをしているのだなぁと気がついてきます。だから結局、どこにいても行い手であるとも言えるけれど大きな宇宙の中で選択させられている?のかもしれません。

ミッティア(移り変わる世界)の中には結局は求めるものはない、というかすでにあったのだと気付くのがヴェーダーンタではありますが、だからと言って行いをしないというわけではなくて、したいことがあれば十分努力したりするのだけれども、最終的には結果は自分が出すのではなく、イーシュワラに委ねられるということが大切だし、ミッティアの世界で何かをえようとかいわゆるステレオタイプな成功を求めるのではなく、モークシャがそれなのだと分かりつつも体験をしていくということが大切なのですね。そして与えることと祈ることを実践し、聖典を学びながら、周りの幸せをお手伝いしていくこと。ダルマを選ぶこと。少しずつ、価値構造が整っていくことで、自然と周りも安心してあるがままでいられるようになるのかもしれません。


ご支援ありがとうございます。noteでは主にファンタジーやSF的なショートショートを書いています。サポートしていただいた代金は、今後紙媒体にするための印刷代やデザイン費として使わせていただきます。どうぞよろしくお願いします!