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選ばれた人

児童虐待やいじめについて語られる文脈で、“選ばれた子供”という表現がある。
ある決まった小さなコミュニティ、例えば学校のクラスや家庭内のような限られた場で、なぜか特定の子が選ばれる。

これは生贄として選ばれるということで、コミュニティを存続させるために、そこに所属するメンバーの不満や鬱憤を一手に引き受けるということだ。

こういう事は仕事場でもよくあって、実際、私も生贄になっている人を何度か見た。
選ばれる理由はだいたいが些細なことだけど、そういう事は選ぶ側からすればどうでも良いことで、“生贄”としての機能を果たしてくれればそれで良いのだ。

こんな風にして特定の敵やマトを用意されたコミュニティは、面白いほどあっという間にまとまる。しかも連帯意識のようなものが芽生えて、「やっかいな面倒に立ち向かう私たち!」というような、むしろ正義感すら覚えるようになる。

こうして袋叩きにあった人は堪えかねて、いずれ死ぬか、いなくなるかする。
そうなるとその後しばらくは反省したりする人もいるのだけど、結局は自分達の悪しき習慣を辞められず、また根本的な欠陥に気付くこともできずに同じことを繰り返す。分かりやすい敵や問題がないとモチベーションが保てず、また目標を達成することよりも皆がまとまること自体を目的にしてしまうので、持続性が低くなる。

こんな風にして生贄制度は続いていくので、生贄がいなくなると、またすぐに新しい人が選出されるのだ。

次々と新しい生贄が生まれていくのを私は黙って見ていたけど、心の中では「こいつらバカだな」と思っていたし、本当にそう言ってやれば良かったと思う。物怖じや遠慮せずに、毅然と状況のおかしさを説明すれば良かったと思う。
そうすることで上手くいくはずだと思うのは、私の思い上がりかもしれないけれど。

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