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(2)愛されているかどうかは、比較であり競争だった


両親が離婚し、私が小・中学生の頃は週末だけお兄ちゃんが、私とお母さんが二人で住んでいるアパートに泊まりに来るという習慣があった。お母さんは離婚の際に、お兄ちゃんのことを、一緒に連れていきたかったけど連れて帰ってこれなかったこと、お母さん自身もお兄ちゃんに手をあげてしまう時があったことから、お母さんはお兄ちゃんに対して罪滅ぼしみたいな罪悪感があった。 

だから、お兄ちゃんが週末に遊びに来たときお母さんはわかりやすく特別扱いをしていた。いつもいるわたしに対してより、たまに来るお兄ちゃんに対しての方が甘いし、優しいように感じた。
そんな感じの扱いの差が小学生のころのわたしには、ただひたすらに辛くて、私はお兄ちゃんが来たときには、ひたすらへそを曲げまくっていた。
もうお母さんのする事なす事すべてが、えこひいきに見えてしまい、「ママは茉優のことなんてどうでもいいんでしょ!お兄ちゃんのほうが好きなんじゃん!もういい!」ってよく怒っていた。一人で怒ってへそを曲げてベットに潜り込んで泣いていた。

いつも自分は、お兄ちゃんより愛されていない。いつも自分は、お兄ちゃんより必要とされていない。
いつも自分は、お兄ちゃんより大事にされてない。
自分はいないほうがいいんじゃないか、と感じ、「当たり前に、ここにいていい」って思えないような、そんな幼少期だった。


その頃から、わたしにとっての世界は
愛されているかどうかは、比較であり競争だった。

その人が、わたし以外の人を愛したら、
その人からわたしへの愛が減ってしまう。

その人が、わたしじゃない人に、わたし以上の愛を向けたら、わたしは負け。

どれだけ愛されているかは、
その人がどれだけのことをしてくれたか、
どれだけ価値ある言葉を言ってくれたか、
そういう『相手の言動』に、
『わたしがどれだけ愛されているか』を測る、
そんな思考が形成されてった。

そしてそれは大人になってから、
そのまんま恋愛に反映されることになる。


わたしは、恋人にとって、どれだけ大事なのか、どれだけ愛されている存在なのか、そういう証拠をひたすら外に外に求め、自分が思うようなものが得られないと、愛されていないんだ、と絶望していた。

愛されているかに常に比較が伴うため、
お母さんがわたし以外の人と接する時、
恋人がわたし以外の人と接する時、
常に目を光らせて、
わたしに向けている以上の愛が出てこないか、
怯えていた。そんなんだから、嫉妬にも苦しんできたし、相手が差し出してくれているわたしへの気持ちに自信が持てなかった。

誰がなんと言おうと
誰が何を言わずとも
誰がなにをしようと
誰が何をしてくれなくても

わたしはすでに愛されている存在なのだということ
わたしはすでに価値のある存在なのだということ

その事実は、外側の何かで、他者の言動で揺らぐものではなかったのだということ
外側に理由や証拠を求める必要はなかったのだということをいまは少しずつ知り始めている。

愛されている証拠は、外側に求めて「確かめるもの」ではなく、内側のこころで「感じとるもの」なんだったのだ。

そう、今は思う。

とってもよろこびます♡