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(6)国際協力×教育という軸に決めた高校生



わたしは、中学の頃英語の先生に恵まれ、英語がだいすきになった。そして英語という共通言語がひとつあれば、肌の色が違くても、瞳の色が違くても、文化や宗教が違くても、想いを伝え合える、心つながることができることに感動した


そしてもっと英語を話せるようになりたい、異文化に触れたいと思い、商業高校の中の国際教養学部へと入学した。そこは、オーストラリア語学研修や異文化理解に特化した取り組みがたくさんあった。

そのうちの一つに、JICAの人による講演会があった。その講演会で初めてわたしは、この地球に児童労働があることを知った。生きるために必要不可欠な水を飲むために井戸を掘る人たちがいることを知った。

ただ、生まれ落ちた国がたまたま違うだけで、綺麗な水が飲めない、家族と一緒にいれない、人の家で朝から晩まで働かなければならない、そんな子どもたちがいることに、全身で衝撃を受けたと同時に強い悲しみと怒りも湧いた

「どうしてなんだ」「こんなことがあっていいのか」「私にできることはなんなのか」と、国際協力への熱がスイッチオンした瞬間だった。それからというもの、ひたすら調べまくった。本を読みまくった。貧困や格差には、社会的な構造や負の連鎖があり、それを打開する方法に教育が大事なことを知った。


わたしはもともと先生に恵まれてきた人生だったのと、中学での英語がきっかけで、中学の英語教員を目指してた。そこに、国際協力の要素も加わり、わたしはこういった世界の貧困や格差の現状、世界の子どもたちの現状を、日本の子どもたちに伝えられる先生になりたいとおもった。それも情報ではなく、自らの経験から語れるようになりたいと。 


だから大学では国際協力が本格的に学べ、かつ教員免許も取得できる所、と探した。その2つの条件が満たせてれば日本のどこでもよかった。
そしたらたったひとつ、函館にある北海道教育大学がビンゴ。ここしかない!と思い、その熱意を面接でアピールし、推薦で合格。新潟から函館へと海を渡った。

初めは興奮した。わたしの大好きな国際協力という分野が授業になっている!学べている!とそれはそれは楽しかった。大学2年目になってからは講義の中でもアフリカの貧困とか南米のスラムや格差、開発援助などを学んで行く中で、やっぱり自分の目で見に行きたいって思うようになった。自分の肌で感じたくなった。

「この授業って結局、教授の体験に基づく頭の中が授業になっているだけじゃないか。これは人のものであってわたしのものではない。」って思った。だから自分の足で、貧困や格差の大きい、アフリカと南米に行こうと思った。飛行機で行くとアフリカも南米も大変だなと思っていた矢先にピースボートを知った。


たまたま同じ大学の先輩が、そのピースボートに乗り、帰ってきたというFacebook投稿を目にしたのだ。知っている人ではなかったがこれはもう声をかけるしかない!と大学の玄関でばったり見つけた時に、「すいません、わたしピースボートに興味ある者なんですけど、船乗ってきた方ですよね?お話聞いてもいいですか?」って声をかけた。
その場でLINEを交換して後日、船に乗った話を聞かせてもらって、そこからとんとん拍子に話は進んだ。


こういう勇気でわたしの人生はすべて形作られてきたような気がする。その大学の先輩とは今でも大切な繋がりのある、わたしにとって恩人のようなひとだ。函館で開かれた説明会で、93回クルーズという南半球を一周する船があると聞き、「南米もアフリカもどっちも行ける。一石二鳥だ。完璧。これしかない!」って思い、すぐに船に乗ることを決め、わたしは1年大学を休学することに決めた。ただひたすらに、「決」めて、「断」つ、それがその時のわたしのテーマだった


決断とは決めて断つこと。その字の如く、休学することを決めて、普通のレールに敷かれた道を断った

自分で最高の未来にする!と決め、これでいいのだろうかという未来への不安を断った

部活も人数ギリギリだったのに突然辞めることに決めて、波風立てず人に迷惑かけずに生きれる道を断った。わたしは自分のために生きるのだと決め、他人軸の人生を断った

何かを選ぶということは、何かを捨てること
何かを決めるということは何かを断つということなのだ。

捨てきれず、断つことができていないうちは、真の意味で「決めて」はいないのだ。わたしはひたすら自分のために腹を括り続けていった。

とってもよろこびます♡