泣いてくれる人がいるのか

「今日は母の葬儀でした」そう息子さんがホッとしたような顔でつぶやかれたそうだ。たまたま母が庭に咲いた花を先生のお宅に持って行ったらしい。自分が花を持って行った偶然を「虫が知らせた」と言って少し自慢気に話していた。
 
先生は同級生のお母さんだったので母とほぼ同じ80代半ばのはずだ。近所なので時々立ち話をする仲だ。わたしの中では先生とわたしの母の会話が成りたっているとは到底思えない。先生は近所でも垢抜け具合いがズバ抜けていた華やかな人だった。
 
何十年も会っていなかったけど、昨年急に会いたくなって、挨拶に行こうと思い立ったがコロナのこともあり思いとどまっていた。今更ながら悔やまれる。母が言うには先生もわたしのことを話されていたらしい。同じ頃なぜかわたしも急に会いたくなっていたのだ。
 
先生は同じ町内で英語塾の経営されていた。小学校から高校の途中まで通ったから結構長い時間を先生と過ごしたことになる。あの頃からチャーミングという言葉がぴったりの細くて美しい女性だった。学校の教科書とは違う英語多めのテキストを使って非日常の時間を過ごしていた。その頃から英語を日本語に訳す授業はやっていなかったので、学校のテストにはたいして反映されなかったが外国語の自由な学び方を教えてくれた当時では斬新な先生だったように思う。
英語を軽やかに話す澄んだ声は今でも胸に残っている。先生のようにやさしくて自由な人になりたいと憧れたものだ。授業そっちのけで先生の仕草にウットリしていた。そう、憧れる…という言葉がピッタリだ。先生の息子さんも一緒に授業を受けていたが背が高く、ガッチリした風貌は小柄で華奢な先生とは似ても似つかなかった。子どもながらにまったく似ていないな〜と思っていた記憶がある。
 
当時、小学生目線でも素朴な母や近所のおばちゃんたちとは違って英語を話せる美しい先生は完璧に外国人枠だった。あの頃は海外へも簡単に行くことは出来ず、海外旅行や留学は特別なことだった。海外へのあこがれはとても強かったように思う。先生自身がわたしにとっての外国でかつ自立した女性という感じだった。よっぽどの用事がない限りは休んだ記憶がない。1時間の授業の後はなぜかとても元気になれた。今、思えば知らず知らずのうちに背中を押してくれた人生の恩人のひとりなのかもしれない。欲を言うならもっと押してくれてもよかったかな(笑)
 
亡くなったと聞いた時は急にほろほろと涙があふれてきて、先生の授業の声を昨日のことのように思い出していた。何十年もご無沙汰していたのに急にこんなに悲しみがこみ上げるなんで、いったい人間の脳の構造はどうなっているのか。
 
ダンスが好きと言っていた先生。近年は足が悪いと聞いていたけど空の上で思う存分踊ってほしい。
 
勉強のことはさておき、先生でも親でもない人と付き合うあの時間は思えば貴重だった。多分少なからず影響を受けていると思う。
 
自分が死ぬ時、果たしてこんな風に泣いてくれる人がいるのか…とふと考えてしまった。
 
 
 
 
 

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