『あの頃の青い星』感想

こんにちは。
前回下品な話を書いてしまってあれですが今回は青春百合漫画『あの頃の青い星』について感想を綴っていきたいと思います。
こういう純粋な物語を見ると、心が和む。特に女性同士だと何と言うか「性の垣根」を超えて純粋に好き合っているのだなという感じがして最近好んで百合漫画を見ています。
(出会い系サイトで知り合った女性に「趣味は?」と聞かれ「百合漫画最近見てます」と言ったら返事が来なくなった。もっとオススメしたい漫画があったのに残念だ…。)
さて、エヴァンゲリオンの赤木リツコ博士の言葉に
「潔癖症はね、つらいわよ。人の間で生きていくのが。
"汚れた"と感じた時わかるわ、それが」
という言葉が有りますが、自分にもこれが当てはまっているのでは無いかなあ…と思います。
僕は特に小学生の時などに純粋とか天然とか言われて来ました。
今も酒はほとんど飲まないし、極端なお金を使う遊びもしない。ギャンブルもしないしタバコもやらない。でも前回の記事で書いたみたいに女装子遊びをしてしまう。たまに女装子の発展場に行ったり、女装をしたおじさんと遊んだりする時に、つまり自分が「したくないな」と思う相手と「他に相手が居ないから」或いは「誰も居ないよりはマシだから」という理由でセックスをした時に強烈な胸の痛みと伴に敗北感・そして汚れを感じる。これは本当はとても失礼な話であると思う。何故ならお互いの合意の許に性行為を行っており俺が断ればいい話なのだから。何をやっているんだ俺は…。
という気持ちを心の何処かで持ちつつも、心の何処かには純粋な俺が居る。
福山雅治の『生きてる生きてく』の歌詞の中に「大人になればときめくだけでいつでめ子どもになれる」
というものがあるが、正にこれだと感じる。
ときめいているのか?とクエスチョンマークが付くが、まあときめいているのだろう。百合漫画を見てときめく度にいつでも(純粋な)子どもの頃に戻れるのだ。
(少し無茶苦茶かもしれない)

と、ここまで自分の心情を語った後で肝心の感想を。

○儚さ
一言で言うと「儚さ」である。
この漫画を読むと儚い気持ちになる。
それはヒロインである瀬川の持つ(描写上の)線の薄い描写に由来するのかもしれないし、瀬川の自己肯定感の低さに由来するのかもしれない。或いはどことなく不安そうに笑う彼女の顔に。或いは彼女らが過ごす3年間という限られた時間に由来するのかも。或いは瀬川とその恋人である講本との関係性が長くは続かないという予感がそう感じさせるのかもしれない。儚さと同時に田舎独特の「物寂しさ」を感じさせる。


○田舎の物寂しさ
登場人物の一人が述べる。

『あの頃の青い星5』参照

田舎はひとけが無くどこか寂しさを感じさせる場所だと思う。
この様な場所が物語内で度々登場する。
ヒロインの瀬川がアルバイトをしているアイス工場もそうだ。
彼女は夏休みの期間限定でアイス工場で平日毎日アルバイトをしている。
バイト内容までは詳しく描かれていないが帰り道に同僚の中年男性らに挨拶をする場面がある。
物寂しさを感じさせる描写ではないだろうか。
オシャレな田舎カフェや海の家でのアルバイトなど、そういった選択肢は無いのか。
他のアニメや漫画なら定番であろう。
「田舎」の良い側面を描こうとそういった「活気があって」「観光地ぽい場所」でアルバイトをさせると思う。
しかしこの漫画はそうならない。
瀬川は他人との接触が苦手だ。
ならば夏休み中のアルバイトを通して新たな世界を知り成長するという展開も考えつくかもしれない。
しかしそう安易に成長させない。
瀬川は「他人と話さなくて良いから」という理由でアイス工場でアルバイトをする。
瀬川は美人だ。
実際に作中で男子高生から好意を寄せられる場面もある。
彼女は現在クラスで孤立している。
これは女子校ならではだと思う。
彼女は運動神経が抜群だし(バスケや水泳にて飛び抜けた成績を見せている)容姿も良い。共学ならまず男子が放っておかずクラスの輪からハブられるなんてことは起きないであろう。(彼女だけ放課後の合唱練習の連絡を貰っていないというシーンがある)
他の女子校を舞台にした漫画でも彼女の様な立ち位置は珍しい。
美貌があり運動に優れる彼女の様な人物は「孤独」ではなく「孤高」として描かれる筈だ。そして周囲の人物が「あの子カッコいいよね」等と憧れる人物として描かれる筈である。
しかし瀬川は主人公の講本以外からは積極的な好意を寄せられていない。基本的に悪い人物はおらず、みんな瀬川に対し普通に接している。しかし自分から距離を縮めようとしたり関わろうとするのは講本だけである。

話を戻そう。
講本の他に壁を作る性格も相まって田舎である事(=何も起こらず退屈な場所)の閉塞感がより強まっていると感じる。
この漫画は基本的に「学校↔寮」の世界の中で完結される。前述の様に夏休みのイベントで外の世界が広がったり、どこかに遊びに行きそこで社会が広がる様な事も無い。せいぜい数駅先の水族館に行く程度である。(尤も修学旅行で沖縄に行く話はある。)
つまり瀬川の抱える問題(幼少期から母親が不在の為に起きた母性への渇望・小学生時代に起きたいじめに対するトラウマ及び人間不信・自己肯定感の低下)はこの世界の中で解決することが求められている。

○瀬川の問題はどう解決されるか
・母性への渇望
瀬川は物語の当初「人魚の母親」を求めて夜の海を彷徨う描写が多くなされた。しかしこの描写は講本と友人関係を築いて以降減っていき、2巻の途中からは無くなった。これはある意味で瀬川が講本に対して「母親の代替」の役割を見出したからであるとも言える。
現に瀬川のクラスメイトは瀬川と講本の関係を「母子」に例えて瀬川の事をからかっている。講本は恋愛感情を向けているが瀬川から講本に対する感情は異なっている。このすれ違いは度々描写される。
講本は友人が多い。クラスでは仲良し7人グループで行動し、中学時代の旧友も登場する。講本は「友情としての好き」と「恋愛としての好き」を明確に区別する事が出来る。だから始めて「恋愛感情」を抱いた瀬川の事を特別視する。
しかし瀬川にとっては「好き」という感情を抱く(父母以外で)初めての人物が講本である。

講本の「触れたい」という思いを聞いて瀬川も「私も」と答えるが2人の感情は異なっているだろう。講本はあくまで恋愛の延長としての性的な意味での触れ合いを求めており、瀬川の場合はもっと根源的な子が母から受ける愛情を求めての触れ合いであると考察する。物語内でも共同浴室に入る場面で講本が瀬川を性の対象として認識しているが瀬川は講本に対し特別な恥じらいは抱いて居ない。それは瀬川が講本を母親=家族に近い存在であると認識しているからである。
瀬川は人魚の空想の代替として講本を選んだだけであり根本的な問題(母性への渇望)は解決していない。瀬川にとっての問題の解決とは「母親としての講本」を手放す事であり、その描写は高校3年間の中できっと訪れるだろう。2人の距離感が近づけば近づくほど2人が抱える感情の相違も浮き彫りになる。その事に対する予感から物語の中に儚さ(永遠には続かない関係)が感じられるのだろう。

・人間不信及び自己肯定感の低さ
瀬川のこれらの問題は既に6巻現在でほぼ克服してあると言っても良いだろう。もともと瀬川は他人を避ける節があるものの、講本と友情関係を結んで以降は高本に意志を伝える事が出来ていた。いや、講本と知り合った段階から瀬川のコミュニケーション能力に問題は無いのだ。
瀬川と講本の出会いは理科実験室だ。忘れ物をした講本が実験室に行くと瀬川が待っている。瀬川は講本に「(講本)海っていい名前だね」と話しかける。
こういう風に普通の雑談が出来る時点で瀬川にコミュニケーション上の問題は無いであろう。
クラス内で運悪く理解者が現れなかっただけで、場所と環境が異なれば一変する人物だと思う。
しかし表面的なコミュニケーションは取れても深層に彼女が抱える人間不信や自己嫌悪などの問題は解決していない。
それが解決に向かうのが5巻の学園祭での出来事である。
瀬川の部が行う出し物に小学生時代のいじめっ子たちが乱入してくる。瀬川は身を潜め彼女らに見つからないように隠れる。後ほど瀬川は講本と合流し「自分と関わるのは止めたほうが良い。講本も嫌われる」といった旨のことを伝える。
講本は瀬川に対し「変わる必要は無い」と告げるが瀬川は「変わらないと講本の側にいることが出来ない」と自身の劣等感や自己肯定感の低さを告げる。
講本は「瀬川が変わりたいなら応援する」とそんな瀬川の事も肯定する。
この事によって瀬川に劇的な変化があったわけでは無い。
しかし自身を構成する重要な要素を講本に見せ、それを肯定して貰えたというのは自己を肯定する事に繋がるのでは無いだろうか。
講本は瀬川の事を彼女の人間性の奥の部分まで受け入れている。
だからこそ講本と瀬川のすれ違いが2人に大きな傷を残すのでは無いかと不安になる。

2024.9.12

あんまり何が言いたいか分からない記事ですが許して下さい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?