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文芸批評断章47.

47.
森鴎外の作品について
・「大塩平八郎」
リアリズムにはある種の余情がある。人の目に見える仕草や耳に聞こえる言葉のみを記して心情を明確にせず、読み手が何とはなしにあれこれ推察するので、ここに余情が成立する。大塩平八郎が反旗を翻して町に火を放つが、これを取り締まる側の「跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。」で「六、坂本鉉之助」は終わり、その気持ちは書かれておらず、読み手は消化不良のまま「七、船場」へと移るが、ここにある種の余情が成り立つようだ。広辞苑に従って簡潔に言えば、余情とは言外の情趣であり、言動の背後にある深く感じられる風情となる。この跡部の場合は必ずしもしみじみとした趣や風情ではないが、それでも言動の背後に何らかの心情が予測され、その意味でやはり余情の一種と考える。無論、人物の言動からその心情があまりに容易に読み取れるようでは、意図があからさまに過ぎて余情とは呼べない。飽くまで人の言動と心情との連絡が少しく悪い時に(悪すぎても宜しくはないが)余情が生じる、とすべきだろう。これを仮に「リアリズムの余情」と呼ぶ。よきリアリズム文学にはこの余情があると思う。

誰それは階級は何々で何々を担当して何処其処におり、武器は何々がどれくらいあり、何処其処には何人がおり、誰それが何処其処でどういう状態で死んだ云々という些細とも取れる事実の単なる記述が多く、小説というより記録に近い。「信長公記」を思わせる。小説としてはあまり印象に残らなそうだ。

心理や余情の描写と比べると細々たる事実の記録があまりに多い。小説が小説たる所以は前者なので、この作はどうにも小説とは呼び難い。

大塩平八郎の反乱が物語の主軸だが、それにしても平八郎の策はあまりに稚拙だ。実際もこのようだったのか。

・「寒山拾得」
禅の公案を小説化すれば、この作が得られるだろう。

主人公は求道者に対しては「盲目」に崇拝しているというよりは、素朴に尊敬している、というべきだろう。主人公には俗物の側面もあるが(人々から身分の高さ故に恭しく扱われて喜ぶ等)、同時に人に悪意なく純朴なる面もある。揶揄の対象とするのは残念だ。

・「杯」
私はこれを名作だと思う。文体に工夫があり、自然描写が巧みであり、視点に独自性がある(鴎外ならではであり、誰でも鴎外の立場にいれば同様の想像をしたかもしれないが)。

冒頭は巧みな自然描写であり、[大→小→大]へと展開する。次いで少女たちの生き生きとした描写へと移る。七人の少女のことを「この七顆の珊瑚の珠を貫くのは何の緒か」という言い回しは面白い。そしてこれに続く「漂う白雲の間を漏れて、木々の梢を今一度漏れて、朝日の光が荒い縞のように泉の畔に差す。/真赤なリボンの幾つかが燃える。」というのはさすがだ。蝉の声について「白い雲が散ってしまって、日盛りになったら、山をゆする声になるのであろう。」も見事だ。そして第八の娘が登場して場の雰囲気が暗転する様も的確だ。最後の一行も印象的だ。

小説の主題は被差別者の静かなる抵抗であり、そこに見られる美だが、この両者は最後の一行に象徴的に凝縮されている。

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