文芸批評断章34-35

34.
『日の名残り』の四日目の末尾でスティーブンスは勝利に酔う。執事は常に冷静で主人の意向に沿うべし。スティーブンスは感情に振り回されずにそれを果たしたからだ。そして主人はナチスにいいように利用されるのを黙って見過ごし、ミス・ケントンとは密かに相思相愛だったがよその男と結婚するのを放置した。完璧な執事だったが故にスティーブンスは主人も女も失った。自らの職務に忠実であることによってすべてを失うのだとしたら、それはもうその職業が歴史の審判を受けたことに等しい。ツルゲーネフは『貴族の巣』で滅びゆく貴族階級を愛惜したが、イシグロは滅びゆく職業の「名残り」を惜しんだのだ。丸山才一は文庫本解説でスティーブンスが「自分が勿体ぶつてばかりゐて人間らしく生きることを知らない詰まらぬ男だつたといふ自己省察に到達するのだ」とするが、なるほどそうなのかもしれないが、それでは人間の自意識と歴史的変動との矛盾が見えぬ。

それにしてもミス・ケントンは怒ってばかりで、あまり愛らしい魅力が感じられず、スティーブンスが恋愛対象とする動機がいま一つ見えにくいようにも思われるのだが。

35.
川端康成の『伊豆の踊子』は単なる青春の感傷ではない。

1)ここには差別が描かれている。旅芸人一家は至る所で差別されていた。二十歳の主人公の学生は踊り子に美を見出したので差別意識は有さなかった。学生は踊り子が十代後半だと思っており、いつ何時でも春を売ることになるのではと悲しんでいたが、実は十代前半だと知って安堵した(そう知ったのは、踊り子は屋外の風呂場で一糸まとわずに誰かしらに何かを叫んでいるのを見たから。肌を隠すということをいまだ知らぬ少女だったのだ。ともかく旅芸人一家に生まれた女は春を売らざるを得ぬ運命にあるのだ)。作者は何ら糾弾はしておらぬが、旅芸人一家は貧窮しているとまでは言えぬにしても、なかなかの境遇にいるのだ。

2)主人公は小説の末尾で感傷的ヒューマニズムに酔い痴れる。正義のために闘うことはなく、弱者に厚く同情するのでもなく、自らがいい人と言われ、それでいい気分になって、誰もがいい人だと思い、人々と一体感を抱いて感傷的に涙を流す。ヒューマニズムは自由と平等とを求めて、何らかの形で闘うものだとすれば(ロマン・ロランの戦闘的ヒューマニズムを想起せられたし)、ここでのヒューマニズムは(仮にヒューマニズムだとすれば、であるが)軽薄であり自己満足的である。私が若い頃にこの作を読んで拒否反応を抱いたのは、この故である。もっとも、これを単なる若き日の感傷ととらえればいいのかもしれないのだが。

3)ふと鴎外の「舞姫」を連想した。「舞姫」では、エリート学生が、ある種のノブレス・オブリージュ的観念から下層階級の踊り子と恋に陥り、身分差(?)に悩み、踊り子を捨て、何とも言えぬ気持ちになる。「伊豆の踊り子」では、エリート学生は、同じく下層階級の美しい踊り子に惹かれ、しかし付き合うに到らずに別れ、感傷の涙を零す。鴎外は実行しては蹉跌し後悔しては別れるが、川端は実行せずに別れて感傷の涙を流す。共通点と相違点と。

川端康成の文体はしばしわかりにくい。私は漱石や鴎外それに外国人作家の小説を読む時には感じられない曖昧さが、川端の文章には見受けられる。私はしばしば行為の主体や発言の主が誰であるのかわからない箇所に出くわす。また現代にはない職業が描写されているところでは、具体的に何がどうなっているのかつかめないことも多々ある。それが川端に固有の文体なのであろう。カズオ・イシグロも川端の文章は淡いとこぼしていたかと思うが、このあたりもしっかりと見極めたいと思う。

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