文芸批評断章22
22.
我が国の代表的ロマン主義者である鴎外のいくつかの作品を比べてみよう。まずは鴎外のいわゆるドイツ三部作の最後を飾る作品『文づかひ』である。ここでは、鴎外のヒロインは恋には生きていないので、バイロンのヒロインとは異なっている。明治時代の詩人の描いたヒロインはいかなる男性にも靡いておらず、男性の都合に沿ってはいない。女は女としてではなくて女性としても人間としても生きている。このヒロインはこの作中ではまだ人間として十全なる自己実現を果たせてはいないものの、男の考える「男への恋に生きる女」といったパラダイムはとうに打ち壊している。そこがこの作品のユニークな点であり、ひょっとしたら鴎外の生涯追求した女性の自我の目覚めがここに表現されているのかもしれない。この女性像は、少なくとも『海賊』を執筆したバイロンの思いもよらぬものであった。
鴎外のいわゆるドイツ三部作には興味深い変遷が見受けられる。発表順にいえば『舞姫』から『うたかたの記』を経て『文づかひ』となる(執筆順は必ずしもこの通りではない可能性が排除できないが)。これら三部作を通して見られるのは、作者が自らを投影した作中人物が、最初は前景化しており直情的かつ主体的にふるまっているのが、徐々に背景化して客観的冷静さを獲得していったことであり、それに比例してヒロインが当初は男の色眼鏡に叶う存在でしかなかったのが、次第にそのような軛から脱して自立的立場へと移行していったことである。『舞姫』では、主人公は遥か異国の地において、青春の衝動に従って行動し、エリートとしての人生を投げ打ってヒロインとともに生きんとする無謀とも言える決断を下し、最期は親友の常識的助言に屈服して、ヒロインを捨てて帰国する(ここではその倫理的善悪は論じない。私は、スーザン・ソンタグの『反解釈』的思想に沿って、この作を芸術作品として純粋に味わう。バイロンが女性を一義的にのみ描いたのを不服とするのも、それが想像力の欠如をもたらすからである。道徳的不完全や女性に対する一面的視線は、バイロンや鴎外同様に男性たる我が身にも根深くあり、別の問題として論じられよう)。『うたかたの記』では、主人公はかって目にしてその後会えなくなった、非常なる印象を与えたヒロインを偶然にも見つけ出す。ところが、物語の前半は主人公の男はヒロインから話を聞き出すのが専らであり、どうやら脇役的位置づけである。やがて男とヒロインが互いに本格的に惹かれ始めるとヒロインは突発的事故で死ぬ。すると主人公は悲嘆に暮れて、つまり前景化して物語は終わるのであるが、どちらかというと物語を通して主人公はあまり前には出てきてはいない。『文づかひ』ともなると、男は完全なる脇役であって、ヒロインがしたくもない結婚から無事に逃れる顛末が語られるのを淡々と聞く役に徹しているのみである。三部作を通観するに、前景にいた主人公は徐々に背景化していくのである。この作品の変遷過程に見いだされるのは、脱恋愛化であり脱ロマンチシズムであり、すなわちリアリズム化なのである。
これら三部作におけるヒロインはどうであろうか。『舞姫』のヒロインは主人公と出会った時には可憐で弱々しかったが、やがて主人公を信頼し、恋心を抱き、身を任せるまでに至る。いつしか主人公がいなければ生きていけない状態にすら陥る。ここに完全なる男性依存が完成する。そしてその状態で主人公から別れを告げられて真に発狂することになる。『うたかたの記』では、ヒロインは、青春真っ盛りの画学生たちのモデルをしていたが、汚れなく生き抜くためには狂人のふりをせざるを得なかった。しかし本人はもはやこの奇矯なるふるまいが演技であるのか、それとも真の自分であるのか、判別がつきかねる状態でもあった。ヒロインは半ば正気であり半ば狂気であった。不幸にも死した後には主人公が狂気に陥ったのであるが。『文づかひ』では、ヒロインは初めから終わりまで正気を保ち続けていた。親の定めた、どうしても愛するに至れない婚約者との結婚を回避すべく、理性的に現状を正確に分析し、練りに練った手を打ち、事態の打開に奏功した。三部作を通して見れば、ヒロインは狂気から正気へと向かい、それに応じて男性依存の状況から自立した態度を獲得することになった。女が女性となり人間となったのである。
この三部作を別の視点から眺めれば、『舞姫』のヒロインは発狂して自ら人生に終止符を打ち、『うたかたの記』のヒロインは発狂をコントロールしながら事故死し、『文づかひ』のヒロインは発狂せず死ぬこともない。狂気はロマン主義の一理想である。出世や世間体を考えて自分にとって好ましからざる結果をもたらしそうな恋を自分で諦めるのだとしたら、それはロマン主義ではない。恋以外のことは何も考えずに、敢えて恋に盲目となるのがロマン主義の神髄なのである(その意味では、鴎外の『舞姫』の結末では主人公は親友に恨みがないではないが、その常識的忠告を受け入れて先の見えない恋を断念しているので、鴎外はロマンチシズムからリアリズムへの目覚めを経験した、と言えそうである)。
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