『神曲』の新教性

〇偶像批判
・偶像とは神仏をかたどってつくった像であり、偶像崇拝とはこの像を信仰の対象とすることだ。いわば神でもないものを神とみなすことであり、より一般的に言えば、実質的価値のない物質に価値があると思い込んで、後生大事に抱え込むことだ(ここにベーコンの言う市場のイドラの観念を見る)。

例えば、本当の神は天にいるのに、神をかたどった石像を神としてその前でひれ伏することだ(偶像崇拝)。救世主が着たとされる衣服があれば、それに触れば自分が救われると妄想して、どんなに高額であってもそれを手に入れようとすることだ(聖遺物崇拝)。または、救いを保証するものとして教会が発行した天国行きのチケットを、買いさえすれば自分も天国に行ける、と妄信することだ(免罪符崇拝)。

カトリックは、布教並びに収入源として、これらの「物質崇拝」を容認したのみならず積極的に活用した。プロテスタントはこれに反発し、カトリックによる免罪符販売を批判し(ルター)、聖遺物の効力を否定し(カルヴァン)、時に偶像を破壊した。

・「地獄」第19曲では、シモニア(「聖物売買」とも「聖職売買」とも訳される)が批判される(後にプロテスタントはこの箇所に喝采を送った)。シモニアの語源はシモンだ。「使徒行録」(8)に、魔術者シモンは使徒フィリッポの行う「奇跡と大なるしるしに大いに感嘆し」、また使徒ペテロとヨハネが按手して聖霊を呼ぶのを見て、「按手すれば聖霊を授けられるように、私にもその能力をください」と金を差し出すと、ペテロはこう言った。「あなたの金にも、あなた自身にものろいあれ。あなたは、神の賜物を金で買おうと思いついた。このことについては、あなたには何のかかわりもなくその権利もない。あなたの心は神のみ前に正しいものではないからだ。だから、むしろ悪い企てを後悔し、もしゆるされるものなら心の邪念がゆるされるように主に祈りなさい。私が見るに、あなたは苦い肝と罪の束縛の中にいる」。シモンは金で聖霊を買おうとし、ペテロに断られたのだ。おそらく、聖霊を降す能力は、信心深く賢明な布教者に神が「無料で」与えるものであり、金を出せば買えるものではない。シモンの行為は、霊能者になる価値のない自分にその価値を与えよ、と言うに等しく、価値なきものに価値ありとするという点で偶像崇拝に近い。シモニアはこのシモンの逸話に由来する。

・ダンテは法王ニコラウス(ニッコロ3世、在位1277-1280)を非難する。ニコラウス3世はオルシーニ家の出で、自らを「熊(オルソ)」と自称する。シモニアを好んだが、それは「ひたすら熊の子等の榮(さかえ)を希へるによりてなり」であり、一族の栄光のためだったと弁解する。

シモニアはニコラウス3世以前にも、また以降にも法王により行われており、ニコラウス3世と同じ地獄に落とされる。

・ダンテはシモニアの罪を犯した者には手厳しく、「こゝにとゞまれ、罰を受くるは宜なればなり」(この地獄にいろ、罰を受けるのが当然なのだから)と言い、「汝等の貪りは世界に殃(わざはひ)し善(よき)を踏みしき悖れる」(お前たちの貪りは世界に災いをもたらし、善人を踏み躙り、道理に背く)と言い、「汝等は己の爲に金銀の神を造れり、汝等と偶像に事ふるものゝ異なる處いづこにかある」(お前たちは自分のために金銀の神を造ったに等しい、お前たちと偶像崇拝者とは同じだ)と言う。案内人のヴェルギリウスは満足そうにダンテの言葉に聞き入っている。


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