文芸批評断章12-17
12.鴎外ドイツ三部作殴り書き(1)
a)鴎外「文づかひ」のイイダ姫は自我の目覚めを表すかもしれないが、それが単なる生得的好き嫌いに縮小されている。本来、自我の目覚めは全人格的なものであり、従ってイイダ姫のそれは自我の目覚めを描いたものだとしたら、不十分きわまりない。飽くまで自我の目覚めの一面を見せたものに過ぎない。
b)生得的好き嫌いと言えば、「阿部一族」にも見られる。
人には誰たが上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿せんさくしてみると、どうかすると捕捉ほそくするほどの拠よりどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。
作品中の殿様である忠利は、ただいけ好かないという理由だけで他の人には殉死を容認しながらも、それとほぼ同等の立場にいる弥一右衛門には許さなかった。これが契機となって阿部一族は(ある意味では)体制に反逆することになり、滅亡するに至る。それというのも忠利が慣習としてふつうなら認めてもいい殉死をただ好かぬというだけで認めなかったからだ。だから、「文づかひ」では被支配者が好き嫌いに任せて結婚を回避するのに成功し、「阿部一族」では支配者が好き嫌いによってある一族を破滅に追い込む。どちらにおいても好き嫌いが支配体制に対して動揺をもたらす。そしてどちらも自我の目覚めと呼ぶにはあまりにお粗末だ。
c)「文づかひ」では恋愛の成就も破綻もなく、その意味では劇的展開に欠ける。イイダ姫のふるまいも反逆的とまでは言えない。しかも物語の語り手は主役とは言えず、ただイイダ姫の手紙を言付かっただけだ。その意味では、この作品の筆致は抑制的だ。これに対して「舞姫」の顛末は劇的だ。
d)フォークナーは「八月の光」などで二つの物語を一つに緩やかに統合しており、それが複雑な効果を見せる。どちらも物語も主とも従とも言えず、対等な立場を誇る。これに対して「文づかひ」では、イイダ姫の結末が主となる物語であるならば、その傍らに座すのがイイダ姫と欠唇(いぐち)の物語だ。後者は飽くまで従でありながらも、私個人の感想を言えば、主に劣らず、否、主以上に余韻を残す。このように、複数の物語が一つの物語を成す形式があり、一つは主従のないものであり、一つは主従のあるものだ。
13.
物語はたいていは複数の物語の統合であり、そこには主従関係がある。漱石の「坊ちゃん」の冒頭では、主役は坊ちゃんであり、あらすじとしては坊ちゃんがまずは東京から地方へと赴くことであるが、そこに忍び込むのが坊ちゃんと清の物語だ。清がいなかったら、坊ちゃんと清とのやり取りがなかったら、坊ちゃんは嫌な奴に過ぎないし、私も頁を捲るのを躊躇っただろう。然るに坊ちゃんと清とのやり取りがあって、坊ちゃんの一途な気性のみならず優しさもまた仄見えるからこそ、この作品は生きる。傍流が主流を活かすのだ。因みに、この主従関係を壊したのがフォークナーであろう。
14.
論理は一義的たらんとするが、美意識は必ずしもそうではない。物語は複数の筋の統合であり、和歌における掛詞は複数のイメージを同時に繰り広げる。詩もその気配は濃厚だ。文学において多義性は排除されない。
15.
モームが例の十大小説論の冒頭で言っているが、小説評価は人様々だ。人が何に感銘を受けるのかは人が人生のどのような時期にあるかによって決まるからであり、またどのような主題や場面設定を重視するのかは読み手の好みや人間関係に基づくからであり、さらに小説評価には書き手や読み手の国籍すら関わるからだ。
16.
若者の自我はオートポイエーシスだ。生物の本質はオートポイエーシスにありと言うが、オートポイエーシスは一種の閉鎖的自己完結系なので、知覚と幻覚の区別はなされない。若者は「恋に恋する」ような「盲目の恋」に生きるのでまさしくオートポイエーシスだ。おそらく、若き恋は自己の心的内容を恋愛対象に投影することから始まるのでオートポイエーシスだ。若き自我が特定の対象を崇拝するのも然り。崇拝者の理想が対象に投影される。実際にその人物が理想を体現しているかは無関係だ。さて、恋愛は自我の目覚めだという話があるが、どうであろうか。検討を要する。
17.
小説はオートポイエーシスだが、読者はその内部に入り込むのは不可能ではないが、しかしとにかく内部に入り込まなければならない。作者の世界観を理解して、作者の目で事象を見なければならない。同時代の作家ならばそれは容易だが、文化圏の異なる作家は難しい。モームは言う。賢い読み手は義務感からではなくて楽しむための小説を読む。登場人物に興味を抱き、特定の状況内で登場人物たちがどのようにふるまうのか、そして何が彼らや彼女らを襲うのかを知りたがる。そしてその悩みに共感し、その喜びを喜ぶ云々と。これが小説の内部に入りこむことだ。
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