大江千里の「照りもせず…」

照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき


新古今集にある大江千里の作。白楽天の詩句「明らかならず暗からず朧々たる月」による句題和歌だ。「明るく照っているのでなく、曇り切っているのでもない春の夜に朧に霞む月の趣きに及ぶものはない」といった意味だ。

相反する二概念の甲乙があるとしたら、素朴な論理学的視点からは、甲か乙かのどちらかになるのであって、甲でありかつ乙であることはあり得ず、甲でもなく乙でもないこともあり得ない。甲か乙かのどちらかになるのだから、明晰かつ判明な認識を可能にする。

この和歌はさに非ず。明るいと暗いは相反する二概念だが、私の理解によれば、明るいとは言えず、明るいと言えないのだから暗いのかもしれないが、暗いとも言えず、暗いと言えないのだから明るいのかもしれないが、しかし明るいとは言えない。しかし明るくてかつ暗いというでもなく、明るくも暗くもないというでもない、そういった朧な夜空の月こそ最上の趣きがある、といった意味だ。

この作品は矛盾律に当てはまらない。デカルト好みの一義的明瞭性を重んずる立場があり、詩人好みの多義的重層的不明瞭性を愛する立場がある。

〔明瞭性〕とは、一つの言葉に一つの絵が重ねられることを言う。〔曖昧性〕とは、一つの言葉に複数の絵が重ねられることを言う。

もう少し詳しく述べよう。

〔多義性〕とは、甲乙どちらかの可能性がある場合において、どちらの可能性もあるということであり、甲でもあり得るし乙でもあり得るが、状況に応じてどちらか一つの意味となり、両方の意味を同時に有することはない。夢といえば、1)睡眠中に見るものであり、2)現実にはなり得ないものであるが、どちらの意味になるのかは文脈次第だ。「昨日の夜は悲しい夢を見た」とすれば前者の意味であり、「十年以内に世界平和が実現するなんて夢でしかないさ」と言えば後者の意味だ。

〔重層性〕とは、甲乙二つの意味があり得る場合においてがその両方を同時に意味することであり、言葉に二つの意味が重なって写像されることだ。藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という和歌がそうだ。海辺の粗末な漁師小屋に、読み手の脳裏には(字義的には否定されているが)夕暮れと花と紅葉とが折り重なって、何もない場所が華麗な色彩をまとう。和歌の技法で言えば、掛詞もそうだ(枕詞のほうはといえば、二つの意味合いを持っているが、一方の意味は希薄化されている)。

〔曖昧性〕とは、甲乙二つの意味があり得る場合において、甲であるかもしれず、乙であるかもしれず、甲乙両方であるかもしれず、甲乙どちらでもないかもしれず、そのどれであるのかがよくわからないことを言う。大江千里の和歌がそれと解釈され得る。「照りもせず曇りも果てぬ」とは、照って明るいかと思えばそうでなく、すっかり暗くなっているかと思えばそうでもない。厳密には、「明るくないし真っ暗でもない」ということだから、薄暗いあたりを指すのだろうが、曖昧性解釈によれば、「明るいかと思えばそうでなく、暗いかと思えばそうでなく、明るくてかつ暗いかと思えばそうでなく、明るくも暗くもないかと思えばそうでもない」となる。すべての在り方が否定され得るし、のみならずすべての在り方を否定するのでもない。古代インドの六師外道哲学には、とある懐疑論者がおり、その人の論理が掴み所がないのでウナギ論法と呼んだりするそうだが、それに似るように思う。

要するに、多義性は「どれか一つ」であり、重層性は「すべて重なる」であり、曖昧性は「一つかもしれず、幾つかかもしれず、すべてかもしれず、有るかもしれず、有らぬかもしれない」となる。



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