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存在と非存在と生成と 8

・有無総論一

有論には、説一切有部のものとプラトンのイデア論があり、両者は一体的に考察可能である。無論には、ヴァイシェーシカ学派のものと道家のものとがあり、こちらも同体的に検討ができる。物は有るか無いかのいずれかであり、有るならば無いということはなく、無いならば有るということはない。その意味において、有無は一対の現象であり、説一切有部とプラトンの説は、ヴァイシェーシカ学派と道家の説と、同列に論じることができる(とはいっても、別々の論者が別々の観点から論じているので、すべての点に渡ってことごとく有無が対応するわけではない)。

事物一般の有がある。「一般有」とでも呼ぶこともできよう。男・女・瓶・衣などのあり方であり、説一切有部のいうところの「仮有」である。これら仮有は具体的特殊的なる時間と場所とを占めている。瓶は醤油を入れて我が家の食卓に置いてあり、衣類は実家の箪笥の中に眠っている。また醤油瓶は買ってから割れるまではずっとあり続けるであろうし、衣類は裁縫好きの母が縫ってから古臭くなって変色して捨てられるまではずっとあり続けるであろう。瓶も衣類も一定の場所を占めるので「和合有」であり、一定の時間を占めるので「時分有」である。また、事物一般は各自その物に固有の性質をもっているが、性質とは比較上の観念であり、通常は繋辞を伴って表現される。「瓶は液体を入れる徳利形の容器である」、「布は植物繊維で織った織物である」などと表記されるが、このようなあり方が「相待有」である。

これに対して、事物一般の無があり、あえていえば「一般無」である。端的に「無」といってもいいだろう。具体的特殊的な時間と場合において物がないこともある。我が家の食卓においてには醤油瓶「がない」とか、実家の箪笥には布「がない」などの場合がそうであり、これが「不会無」である。そして醤油瓶でいえば、我が家でこれを買う前は未だ生じていないので「未生無」であり、買って不注意か何かで割った後には、已に滅して無いので「已滅無」である。また、三日月形の便座カバーは徳利形の醤油瓶「でない」という意味において、醤油瓶は「更互無」でもある(なお、更互無は相待有と同様に繋辞を伴う点にも留意されたし)。ところで、普通の人は食卓に便座カバーを置かない。便座カバーは便座の上に置くものであり、卓上には塩・砂糖・醤油などの入った小瓶を置くものであって、醤油瓶と便座はカテゴリーが違う。だから「卓上の便座カバー」はあり得ない組み合わせであるので、「畢竟無」である(ヴァイシェーシカ学派が例に用いる「毛亀」などのように)。とはいっても、「卓上の便座カバー」と発話することは十分に可能であり、名目上は有るものでもあるので、それは「名有」でもある。従って、畢竟無とはすなわち名有なのである。

さて、醤油瓶は食卓にあって便所にはなく、特定の場所を占め、あるいは占めないものである。食卓で見れば「和合有」であり、便所では探しても見つからぬので「不会無」である。そして便座で目にする便座カバーは醤油瓶「でない」ので、便所的観点からは醤油瓶は「更互無」となる。また、醤油瓶は買う前は食卓には無いから「未生無」であり、買ってから当分は特定の時間を占めて存在するから「時分有」であり、壊れた後には「已滅無」である。さらに、醤油瓶は他と形を比べれば、便座カバーの三日月形とは違って徳利形であるので「相待有」である。

以上が事物一般の有無である。(20210624加筆修正)


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