藤原敏行の「秋来ぬと…」

古今集には藤原敏行のこんな和歌がある。


秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる


人間は社会的動物だが、人間性をすべて社会性に還元してはならない。自然界の本質を弱肉強食とする人がいるが、確かにそのようなところは否定できないが、それに尽きるものでもない。 人は(おそらく一部の動物もそうだと思うのだが)自然界に美を見出す存在であり、自然界には美が内在しているのだ。自然美とはいっても、夕陽や薔薇のように、雄大であったり色彩や造型の妙であったりするものもあるが、その他にも、自然界の事物間には微かな違いがあり、人がそれに気づくことによってもたらされる感動もまた自然美の体験となるのだ。

私はこのような微かな違いの認識が自然美の体験となり感動となることに驚く。昨日より今日のほうが風が少し涼しい。歌人はそれに気づき、そこに相違を見出す。感動さえも見出すのだから、ここには美があるはずだ。ところが、このような風の温度変化に如何なる美があるというのか。いったいこの作品には如何なる美が詠み込まれているというのか。私はただただ不思議だ。

夏の暑さが和らいでいる。夏はその盛りからいまや下り坂にいる。ここに歌人が美を見出したとしたら、それは盛者必衰の理を見出し、それを美しいとして文学へと昇華した諸行無常の美がある。つまり、夏から秋への気温の低下に歌人は諸行無常の美を見出したのだ。

しかし今を時めく者が零落すれば誰の目にも明らかだが、風の微かな温度の低下は誰もが気づくことではない。私のような胡乱な者には夢のまた夢だ。ここには歌人の鋭敏なる感性がある。自然界の霊妙な変化を敏感な感性が感じ取って始めてこの作品は成立する。ここにこの作品の美しさがある。

否、それだけではない。この作品を世間が受容したというのは、世間の少なからぬ人々が歌人と同様の体験をしたのであり、歌人と同様に感動したのであり、この感動を歌人が言語化したからこそ、世間の人々はこの作品に共感したのだ。ただし、世間からすれば、この感動は意識しようと踏ん張ればできるものだったが、必ずしも容易に意識化できるものではなかった。それを歌人がしたものだから、そこに歌人の感度に対する感動もあった。つまり、世間がこの作品に共感したのは、1)世間の誰もが知ることだからであり、しかしながら2)世間の誰しも明確に意識できないことが明瞭に言語化されていたからであり、さらに3)その言語化が和歌の形式に則って巧みに言い表されていたからであり、さらにさらに4)その主題が諸行無常という普遍的真理だったからなのであり、5)この諸行無常に幾分なりとも悲しみが伴うからなのだ。

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