九鬼周造の「もののあはれ」と無常感
九鬼周造は言う。
「万物は、有限な他者であって、かつまた有限な自己である。それがいわゆる「もののあはれ」である。「もののあはれ」とは、万物の有限性からおのずから湧いてくる自己内奥の哀調にほかならない。客観的感情の「憐み」と、主観的感情の「哀れ」とは、相制約している。「あはれ」の「あ」も「はれ」も共に感動詞であるが、自己が他者の有限性に向って、また他者を通して自己自身の有限性に向って、「あ」と呼びかけ、「はれ」と呼びかけるのである。」
私なりに要約しよう。どのような生物であれ永遠の生命を享受することはできず、どのような事物であれ永遠不変のままでいることはできない。私であれ、他の生命であれ、あるいは何らかの事物であれ、いつかは変化し滅亡していかざるを得ないのである。これが九鬼のいう「有限性」である。それに痛感すると、私たちは自己の心の内部に何らかの哀れむ気持ちが生じ、またこの思いを滅びゆく対象に向けるとそこに憐みの情が生じるのである。この「哀れ」や「憐み」の情から湧き上がってくるのが「もののあはれ」なのである。
これは、日本人の好むところの無常感と近いものである。無常とは、「常なるものはどこにも無い」という意味であって、事物の永遠性や不変性を否定する考えである。そうして無常感とは、それを実感することでありまたそれに感動することであって、言い換えれば、日本人は事物の無常をある種の美と感じているのである。
無常感を主題とする文学作品には『平家物語』と『方丈記』が有名であろう。『平家物語』では、鐘の音も花の色も束の間であってすぐに消えゆくものであり、それは世の栄枯盛衰を如実に示すものなのである。また『方丈記』では、先ほどの川の流れと今のそれとは異なるものであって、すなわち川はその姿を時々刻々と変化させていくのであり、永遠なるものではないのであり、それと同様に、世の中の人々もその住まいも絶えず移り変わって行くものであって、ずっと変わらず生き続ける人もいなければ、その形も住人も同じである住まいも存在しないのである。そうして日本人はそこにはかなさを感じ、それを美しいと思うのである。
桜が好まれるのもそれがすぐに散るからであり、仮にもし桜が四季を問わずにずっと咲き続けていたら、それはむしろ興ざめであろう。おそらく、日本人の判官(ほうがん)贔屓(びいき)は無常感を美意識とすることに由来するのであって、源頼朝よりも源義経が好まれるのは後者が政争に敗北して若くして死んでいったからであり、桂小五郎よりも高杉晋作が愛されるのは晋作が不幸にも短命だったからであり、あるいは大久保利通よりも西郷隆盛が尊敬されるのも西郷が意に反して逆臣として死んでいったからであろう。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰(ひっすい)の理(ことわり)をあらはす。驕(おご)れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛(たけ)き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
(祇園精舎とは古代インドの須達長者という富豪が、仏陀(釈迦)のために建立した寺院であり、その寺の鐘の音はすべてのものが移りゆき滅んでいくという諸行無常の響きを持っている。仏陀が入滅する時に生えていた沙羅双樹の花の色も、栄えた者はいずれ必ず滅びゆくという無常を示している。今、驕っている者もその隆盛の時期は長くない、ただ春の夜の束の間の夢のようなものだ。強力に見える人間も最後には滅びてしまうのだ、ただ風の前で吹き飛ばされていく塵のようなものに過ぎない。)
「行く河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、ひさしくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」
(流れ行く川の水はとだえないが、もともままではなく、よどみに浮ぶ水のあわは、消えたり結んだりして、久しくとどまってることはない。この世のなかにある人と住居(すまい)も、やはりそうである。)
注:
『いきの構造』九鬼周造、岩波文庫所蔵論文「情緒の系図」169頁より。
『平家物語』は、http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan3/heike001.htmlによる。
『方丈記』は川瀬一馬による校注・現代語訳、講談社文庫より。
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