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文芸批評断章46.

46.カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」について

「忘れられた巨人」の問いは、善い記憶も悪い記憶もすべて奪われた生とどちらも保ち続ける生と、どちらが人には望ましいのか、という問いだ。フロイト風に言えば、「抑圧された無意識内容を明らかにするべきかどうか」となる。フロイトは「然り」と答えるだろう。明らかにすれば(これを「無意識の意識化」と呼ぶが)、人生を取り戻せるのだから。だが、イシグロは懐疑的だろう。明らかにすれば、かっての仕打ちが思い出され、止むことなき復讐と殺戮が始まるのだから。

私はこの作を宮崎駿の「シュナの旅」と比較する。「風の谷のナウシカ」では世界の問題は曲がりなりにも解決される。しかし「シュナの旅」はそうではなく、この問題の未解決という点で「忘れられた巨人」は「風の谷のナウシカ」よりも「シュナの旅」に近い。シュナでは、世界は不条理であってもシュナとテアは満ち足りた時を過ごしている。同じく、巨人の最後では、これから復讐と殺戮が始まるとしても、老夫婦は紆余曲折はあったにしても互いに深く愛し合い結びついている。世界は不幸であるかもしれないが、人々には愛し合う自由があるのだ。

世界は不条理であるかもしれない。それでカミュの「異邦人」では、主人公は世界と同化して理由もなく殺人を犯す。しかし世界は不条理でその本質は憎しみかもしれないが、シュナはテアと満ち足りた時を過ごし、巨人の老夫婦は互いに労り合い愛し合う。このように考えると、仮に世界は不条理で憎しみに満ちているのかもしれず、もっと言えば明日にも世界は、あるいは人類は滅ぶのかもしれないが、それでも人には愛するという選択肢を選び得るのであり、しかもこの愛は何らかの形で実り得るのだ。その意味では、「異邦人」は絶望の中の絶望であり(愛は忘れられたから)、「忘れられた巨人」と「シュナの旅」は絶望の中の希望だと言える。カミュの作で言えば、「シュナ」と「巨人」の系譜は「異邦人」でなく「ペスト」にあり、と言えそうだ。

希望に満ち溢れる世界で希望を見出すことがあり、希望の世界にいながら失望することがある。絶望の世界にいて絶望を抱くことがあれば、絶望の世界にいながらも、なおかつ希望を掴むこともある。真の文学は希望の文学であり、真の希望の文学とは絶望にあって希望を見出す文学だ。

不条理文学。小説においては、1)話の展開が不条理である作品があり、あるいは2)話の流れそれ自体は首尾一貫性があるものの、その小説の世界観が不条理である作品がある。カミュの「異邦人」は、殺害する理由が太陽が暑かったからであり、これはある意味では1)の不条理かもしれない。イシグロの「忘れられた巨人」や宮崎駿の「シュナの旅」においては、ストーリーは何ら不合理的ではないが、登場人物を取巻く世界は不条理と言えそうだ。というのも、シュナの世界は人間が買われ、連れ去られ、正体不明の巨人へと変貌させられる世界であり、巨人の世界は憎悪と殺戮とがいまにも始まろうとしている世界だからである。

エドラは復讐心に燃える(p.313)。これは「シュナの旅」のテアにはないものだ。両親を殺され村を焼かれたテアは敵に対する復讐心を抱いていない。

全般に反戦平和主義的価値観とは無縁な世界観で物語は進む。反戦平和主義の非普遍性が炙り出される。

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