『徒然草』の弁証法
『徒然草』第百五十五段には、次のような一節がある。
「春暮れてのち夏になり、夏はてて秋のくるにはあらず。春はやがて夏の気をもよほし、夏より既に秋はかよひ、秋は則ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちてめぐむにはあらず、下よりきざしつはるに堪へずして、落つるなり。迎ふる気、下にまうけたる故に、待ちとるついで甚だはやし。」
(春が暮れてから夏になり、夏が終って秋が来るのではない。春はその季節の中に既に夏の気を催しているし、夏の季節から既に秋の気が通い、秋そのものが即ち冬の寒気を持って居り、冬の十月はもう小春の天気で、草も青く梅も蕾を持つ。木の葉が落ちるのも、まず葉が落ちて、それから芽が出るのではない。新芽が下からきざし、きざすのに堪えかねて葉は落ちるのである。新しいものを迎え取る気運が既に下に醸されているから、それを受け容れる時機が敏速に現れるのだ。)
兼好法師によれば、新しい季節が生じるのは古い季節が完全に終わってからではない。そうではなくて、ある季節が進展していけばその内部から次の季節が首をもたげてくるのである。そうして古い季節がなくなる頃には新しい季節がいっそうその季節らしくなっているのである。一つの季節と次の季節との間の境界線は必ずしも明確ではなく、むしろ曖昧模糊としており、隣接する二つの季節は微妙に融合しているのである。このように、ある季節の内部に次に訪れる季節を鋭く感じるのは、日本人の季節に対する敏感さのなせるわざであろう。それが如実に示されているのは、例えば次のような和歌であろう。
・秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行朝臣
(秋がやって来たと、目にははっきりと見えないけれども、風の音で(秋が来たなと)自然にはっと気が付いてしまうことだよ。)
そうして、この兼好法師の自然実感は、私にはどうもヘーゲルの弁証法を髣髴とさせるのである。以下の『精神現象学』からの引用文を参照せられたし。
「花が咲けば蕾が消えるから、蕾は花によって否定されたということもできよう。同様に、果実により、花は植物のあり方としてはいまだ偽りであったことが宣告され、植物の真理として花にかわって果実があらわれる。植物のこれらの諸形態は、それぞれ異なっているばかりでなく、たがいに両立しないものとして排斥しあっている。/しかし同時に、その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらはたがいに争いあわないばかりでなく、どの一つも他と同じく必然的である。そして、同じく必然的であるというこのことが、全体としての生命を成り立たせているのである。」
すなわち、蕾の内部から蕾ならざる花が現れ、そうすると蕾は否定されて花になるのであるが、蕾が終わってから花になるのではなくて、蕾の内部から徐々に花が現れて、いつしか花に取って代わられるのである。この次第は花と果実の関係も同じである。ヘーゲルの弁証法は形而上学的かつ抽象的であり、ひいては広大なる体系を構築しているのに対して、兼好法師のそれは(おそらくは)ふとした思い付きであり、生活と自然の実感に根ざしたものであって、両者の着想の全体像は全面的に異なっているのであるが、それにしてもある一点においてきわめて似通っているのである。
注:
・『徒然草』の現代語訳は、『徒然草』、佐々木八郎、現代語釈日本古典文学全集、河出書房、第二版による。
・ヘーゲルの引用文は『チャート式新倫理』151頁から。
・藤原敏行朝臣の歌は、古今・秋上・169(巻八・春雑歌)。『万葉・古今・新古今』保坂弘司、学燈文庫、187頁。訳は『全訳古語辞典』。
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