大隈言道の「流れくる…」

流れくる花に浮かびてそばえてはまた瀬をのぼる春の若鮎


私の電子辞書に見つけた和歌(名歌名句事典)だが、江戸時代の歌人、大隈言道の作だ。「若鮎は浮かび上がって流れてくる桜の花びらをつつき戯れながら、またすいすいと瀬を上がっていくよ」という意味の叙景歌だ。叙景とは風景を書き表すことであり、叙景歌とは風景を書き表す歌となる。つまり、叙景歌には歌人の心情が直接表されることがない。

私は若い頃は自分の悲しみや恋情を直接詩歌に詠み込んだものだが、いまや老いたせいか、そのような作品は書くには疲れ、読むにも時に骨が折れる。だから叙景歌は心穏やかに読むことができ、さらにこの言道の和歌には情景が新鮮であるために感動を覚える。叙景歌は老いたロマン主義者の心を癒す効果がありそうだ。

歌人の心情が直接表されないにしても、何らかの形で歌人の心情は反映されている。歌人が深く愁えていれば、若鮎の元気な様子は目に入らないだろうし、入っても共感できず作品へと昇華しないだろう。歌人の心は落ち着いていたのであり、少なくとも憂いの淀みに陥っていなかったのであり、あるいは明るい気持ちだったのだろう。だから若鮎の軽やかな動きに共感したのであり、その感動を言語化したのだろう。

それにしても何と無邪気にして生き生きとした描写だろう。若鮎が花に戯れる様は、特に何かの利益を得るためでないから無邪気であり、さらに若鮎が流れに逆らって上りゆく様は力強くて若々しい。それを何ら力まずに歌に詠むところに作者の落ち着いた心ばえが感じられる。

作者は江戸時代の者で、江戸時代ともなると思想界では仏家よりも儒家が尊ばれることもあり、仏家が諸行無常を唱えて生より死を重んじたとすれば、儒家は逆に死よりも生を高唱した。活潑潑地とは儒家の好んだ言葉であり、伊藤仁斎には「天地一大活物、動あって静なく、善あって悪なし」という言葉があったかと思う。言道の和歌は静や死よりも動や生に軸足を置いてあり、きわめて儒家的だと思う。

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