文芸批評断章28-29
28
ツルゲーネフの『初恋』は、題名からも内容としてもロマン主義的であるが、その人物描写は辛口である。かのヒロインすらも、可憐にして純情なる乙女として描かれているかと言えば、必ずしもそうではない。主人公の母親にせよヒロインの取巻き連にせよ、俗物であり、あるいは冷笑的である。ヒロインは俗物ではないにしても狂気に近い奇矯ぶりが目に余り、時に冷笑的でもある。作者の筆致は、性格を丹念に描き出すところは写実的といってよく、いかなる短所も曝け出すところは自然主義的ですらある。しかも描き出された性格はそれぞれユニークであって類型的ではなく、いまにもその人物の声が間近に聞かれそうなほどリアルである。その自然描写はリリシズム溢れ、その登場人物たちが恋に苦しむ様はロマンチシズムの薫り高く、そしてその人物描写はリアリズムそのものなのである。
『初恋』で、ツルゲーネフはロマンチシズムにどっぷり浸かりながらも程ほどで引き返さなければ己れを見失い、挙句死ぬ怖れもある、と登場人物の口を借りて忠告する。「肝心なのは、しゃんとした生活をして何事によらず夢中にならないことですよ。夢中になったところで、なんの役に立ちます? 波が打ちあげてくれるところは、ろくでもない場所に決ってますよ」とは、取巻き連の一人が主人公を諫める言葉である。ヒロインに惚れ込んだ別の一人は行方不明になっていたが、それを「潮時を見て引揚げること、網を破って抜け出すことが、できないからですよ」と評する。そして、主人公には「君はどうやら、無事に逃げ出したらしいが、また網に引っかからないように用心しなさいよ」という言葉を残しては立ち去っていく。また、数年後に主人公は、かっての初恋の相手の居場所を偶然に知ることになる。そこで会いに行ったら、彼女が産褥で亡くなったことを聞く。そして思うのである、「あの若々しい、燃えるような、きららかな生命が、わくわくと胸をおどらしながら、いっさんに突き進んで行った先は、つまりこれだったのか!」と。つまり、盲目なる恋(この場合は、隣家の妻子ある男性との恋愛なのだが)に取り憑かれるのは死に至る病なのである。もっとも、ヒロインの盲目なる恋と産褥での死との間に因果関係はないのであるが、主人公は後先を見ない恋愛の行き着く先を死だと感じ取ったのである。
恋に盲目であれば分別臭は臭くて堪らないのであるが、眼が開くようになれば尊重するものである。主人公はこうして大人へと成長していくのであり、現実を見るようになるのである。これがロマンチシズムからリアリズムへの移行でもある。そしてこの移行は『舞姫』にも見られ、バイロンの『海賊』には見られないのである。鴎外は出世街道から転げ落ちることがなかった。ツルゲーネフは(いい意味で)社会的問題作を発表し続け、当時を代表するロシア人作家となった。どちらも、バイロンとは違って女性関係で醜聞を流すことはなかった。ツルゲーネフが一人前になってから狂った恋に身をゆだねなかったのは、『初恋』のような恋とは手を切ることができたからである。その点で、この作品はロマン主義宣言であると同時のロマン主義からの決別の宣言でもあったのである。それはあたかもチャイルド・ハロルドが祖国と決別したかの如くであった。
『初恋』では、ヒロインと取巻き連(我らが哀れなる主人公を含め)が罰金ごっこをする場面がある。ヒロインが罰金を支払う羽目になり、そこで崇拝者たちがくじ引きをして、当てた幸運なる(何と倒錯したものだろうか)者がヒロインの「お手にキスする権利を得る」のである。ヒロインは男どもを軽々と手玉に取る。ここでは、ヒロインは(惚れた相手以外の)取巻き連に対しては高慢なる暴君さながらである。しかしそれでもこの女王様の欲するのは、「向うでこっちを征服してくれるような人」なのであり、そういうところはきわめて乙女である。対して我らがヒーローは、哀しい哉、ヒロインに恋する任務しか頭にないかのようである。男はほとんど男としてしか描かれず、真っ当なる人間には程遠い。
29
夢見るだけの人生では足元の井戸に落ちる。夢が一切ない人生では殺伐とする。人間は精神もあれば肉体もある。人間の欲求には一次的なものも二次的なものもあり、そのいずれをも満たさない限り、人間は己れの人生に満足しない。「夢か現か」ではなくて「夢も現も」なのである。しかし人間の成長過程を考えると、若き青春の日々はつい夢に溺れがちとなり、分別がつくと夢を一歩引いて見るようになり、人によっては夢に対して冷酷にすらふるまう者もいよう。いずれにせよ、夢から現へという発達段階があるように思われる。「ロマンチシズムからリアリズムへ」というよりは、本当のところは「ロマンチシズムもリアリズムも」となるのである。
鴎外が『うたかたの記』で、飲み屋で出会った花売りの子を間近に見て「そのおもての美しさ、濃き藍いろの目には、そこひ知らぬ憂うれいありて、一たび顧みるときは人の腸を断たむとす」るほどであった。そして主人公の画家の卵は「この花売の娘の姿を無窮に伝へむ」と一大決心をするのである。詩人はこの世においてこの世ならぬ美を見出しては、無窮へと一歩足を踏み入れるのである。こういったことにより、詩人は美のイデアに引き上げられて自己を遥かなる高みへと引き上げられることもある。詩人は自らが生きる意味を悟るであろう。これはロマンチシズムの人生における広義の効用であろう。ところが、自然主義——私はこれもリアリズムの一種とみなすが——は、この麗しき仮面を剝ぎ取って憚らない。田山花袋の『蒲団』では、いまや中年の域に差し掛かった男性文士の時雄が、文学の道に進みたいという若い女性から手紙を受け取って、こう考えている。「容色のわるい女はいくら才があっても男が相手に為ない。時雄も内々胸の中で、どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色(ぶきりょう)に相違ないと思った。けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った」と。露骨なものであり、ルッキズムの最たるものである。バイロンの「かの人は美わしく行く」(阿部知二訳)の第一連では、次のような描写がある。
かのひとは、美わしく行く
雲影もなき国の、きらめける
星空の、夜のごとくに
ぬばたまの、黒きもの、輝けるもの
よきものは、ことごとく、
かのひとの、姿と瞳にこそあれ
ま昼間の、まぶしさに、神の惜しみし
あわれなる、夜の光りに
やわらかに、融けてこそあれ。
まるで「かのひと」は如何なる肉体も所有していないかのようであり、純然たる美的形而上学的存在であるかのようである。女体という国に知らぬ土地のなかったであろう冒険者バイロンも、女を詩に詠めば美は肉的対象から蟬脱(せんだつ)するのである。
ところで、『蒲団』では、中年の男性作家は結局はその女弟子と何ら物質的交渉はなかったのであり、言ってみれば男の女に対する叶わぬ片想いだったのであり、その意味ではきわめて純情可憐とも言うべきものであったのであるが、その末尾では作家は故郷に帰った女弟子の愛用していた蒲団を取り出しては、その懐かしい油と汗の匂いに胸を焦がし、その残り香を心行くまで嗅ぐのであり、「性慾と悲哀と絶望と」に襲われて泣くのである。自然主義者の手に掛かれば、相手の手すら握らぬ片恋ですら、一片の肉塊と化すのである。ロマンチストは肉の美に天上のイデアを見出すが、リアリストは美の肉を金銭やらリビドーやらに換算するのである。
ロマン主義者は、現世に稀なるロマン、雲の峰も遥かなるユートピアを求め続けるという点で、言ってみれば、源信の「厭離穢土欣求浄土」の祈りに通じるものがある。バイロンはその臨終を飾る詩「この日わが三十六歳を終わる」において、「栄ある詩を遂ぐべき国ここにあり/立ちて、戦場に馳せゆきて/この生命をば終わらしめよ」と謳い、また「汝は求めよ、汝に最善なるもの、兵士(つわもの)の墳墓を、/眼をやりて、末期をかざるべき地をえらび/永久(とわ)の憩いにつけよ。」とも謳う(阿部知二訳)。ロマン主義者は終に自らをして死に至らしめるのである。私はここでツルゲーネフの『初恋』で、恋のあまり潮時を見失って行方不明となった者を思い起こす。ロマン主義は病的になれば死を招くのである。
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