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存在と非存在と生成と 13

・荘子の万物創成譚
荘子は万物創成について二ヶ所で発言している。いずれも「斉物篇」において確認できる。以下に、甲説・乙説として紹介する。(『荘子』金谷治訳注、岩波文庫を参考にした)

甲説;「古えの人、その知至る所あり。悪(いづ)くにか至る。a)以て未だ始めより物あらずと為す者あり。至れり尽くせり、加うべからず。b)その次は以て物ありと為す、しかも未だ始めより封あらざるなり。c)その次は以て封ありと為す、しかも未だ始めより是非あらざるなり」(『荘子』、「斉物篇」第二、四)
(昔の人は、その叡智に最高の行き着いた境地があった。その到達点はどこか。元々、物なんぞないと考える無の立場である。至高かつ完全であり、それ以上何も加えるものはない。次の境地は、物があるとは考えるが、そこに境界を設けない物我一如の立場である。さらに次の境地は、境地があるとは考えるが、そこに善悪の判断を設けない等価値観の立場である。)

乙説;「c)無なる者あり。b)未だ始めより無あらざる者あり。a)未だ始めよりかの未だ始めより無あらざるもの有ざる者あり。」(荘子、斉物篇、第二、五)
(無いということがある。無いということさえいまだ無いということがある。さらに無いということが無いということがある)

この甲乙二つの発言について、a)、b)、c)はそれぞれ相対応して実質的に同内容である、とみなすことができる。甲説は生成の事情について具体的であり、乙説は「無」なる語でもって生成の事情を簡潔に表現している(あまりに簡潔でわけがわからない、とも言う)。また、乙説のa)は「無」、b)は「無無」、c)は「無無無」と通称される。甲乙両説ともに、時間軸に沿って考えれば、万物創成の過程は、〔a)→b)→c)〕という手順を踏む。

では、両説を検討しよう。甲説のa)は、「物あらず」というが、この「物」は物の構成要素を指す。五行思想的に言えば、木火土金水の五元素である。

1)のb)の「以て物ありと為す、しかも未だ始めより封あらざるなり」は、五元素はあっても何ら境界のない状態であり、境界がないから五元素は渾然一体となっている。熱い気体の火と冷たい液体の水とが一体化しているのであり、私たちの世界では、まずあり得ない組み合わせが平気で生じているのであり、たとえて言えば、「火の水」「金の木」のようなものが存在している(これは、ヴァイシェーシカ学派のいうところの畢竟無に等しいと考える)。

1)のc)の「以て封ありと為す」は、境界のできあがった段階であり、五元素が私たちの世界と同様の状態を獲得した段階である。熱い気体の火と冷たい液体の水は、それぞれ別々の場所を占めており、一体的に存在するといった、摩訶不思議なる現象は、まずもって起こりそうにない。当然ながら、「火の水」も「金の木」もあり得ない。

ヴァイシェーシカ学派は日常的なる無を分類し、時間軸に沿って、あるいは同時的に、並べて論じた。対して、荘子は万物創成の際の時間系列に沿って、無を段階的に表現した。列子の語る万物創成譚を、荘子は無という観点から簡潔に要約したのである。


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