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文芸批評断章23-27

23
山村暮鳥の詩集『雲』にあるいくつかの詩について殴り書く。

   雲

丘の上で
とりよりと
こどもと
うつとり雲を
ながめてゐる

この詩では、人間が雲の世界を憧憬しているのであるが、この雲によって象徴される世界こそが暮鳥の究極的理想であり(さればこそ詩集の題名も『雲』なのである)、私のいうところの生物なき生命の自然なのである。この世界に詩人は焦がれているのである。生物がいれば生死があり、本能と闘争が不可避であり、ここからあらゆる苦悩が生ずるのであるが、生物がいなければ本能とそれに基づく闘争もなく、ゆえに一切の苦悩から脱却できるのである。その悠々たる理想世界の様は「おうい雲よ」の詩で示されている。そして「蝶々」は詩人の雲的世界への尽きせぬ憧れを表現したものである。

     おうい雲よ

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか


     蝶々

青空たかく
たかく
どこまでも、どこまでも
舞ひあがつていつた蝶々
あの二つの蝶々
あれつきり
もうかへつては来なかつたか

「おうい雲よ」の「どこまでゆくんか」は、この世界は人間にはなかなか到り得ぬことを示すのである。そして「蝶々」の「あれつきり/もうかへつては来なかつたか」は、こちらにはあちらは見えることは見えるのであるが、しかし人間には微かに感じるだけであって蝶々などの生物はあちらへと行くことができるのかもしれないが(飽くまでもその可能性があるということである、というのも詩人は蝶々があちらへと到達した場面は目撃していないのだから)、しかしあちらのものがこちらへと降り来ることはない、ということを暗示しているのである。ここには此岸と彼岸の弁証法的統一が見られるのである。

詩人の雲的世界への憧憬であるが、憧憬するということはこちらからあちらは仄見えるのであり、想像力を存分に駆使すれば、詩人の心にはあちらの様子が分からないということもないのであるが、それでも憧憬が憧憬である以上、あちらへは到り得ぬのである。この二つの詩においては憧憬の自己矛盾的性格が示されているのである。詩人は生物なき生命世界への憧れを抱いており、憧れているのだからその理想世界の様子が少しはわかるのであるが、同時にその世界にはどうしても到達できないのであり、その事情をこれらの詩が示すのである。

24
暮鳥の「春の河」について。

      春の河

たつぷりと
春の河は
ながれてゐるのか
ゐないのか
ういてゐる
藁くづのうごくので
それとしられる

山室静は「春の河の趣を歌うには、少しく作者は心身ともに弱まっているのか、その底に動いているべき生動の気の十分にはうつし出されていない憾みがある」と評する(『日本の詩歌13』p.63)。別の解釈も可能であろう。三夕の歌の一つ、定家の「見渡せば」と較べてみよう。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

この和歌は彩色美と無彩色美とを対比させて無彩色美を際立たせているのであるが、「春の河」はその対比なくして無色彩美を描き出している。より正確に言えば、定家は有無を対比して無を取り出すのに対して、暮鳥の「春の河」は有を描くにしてもかなり抑制しており(「春」も「河」も有を連想させるが、春という言葉だけでは具体性に欠け、また河も流れているかいないかもよくわからないので、両者ともにどちらかといえば、有よりは無に近しい)、その意味では微かなる有を描き出すことによって、有の無的性格が暗示され、そういった点で「無」が示されている。これは一種のわびさびなのであり、無一物なのである。つまり、最晩年の暮鳥はわびさびや無一物の世界観を、実に長閑な形で童心に還って描き上げたのである。だから、それは山室のいうように生の弱まったものなのではないのである。

25
山村暮鳥の馬の連作について。

馬よ
そんなにおほきななりをして
こどものやうに
からだまで
洗つてもらつてゐるんか
あ、螢だ

馬は子供のようであるが、「あ、螢だ」と突如関心を馬から他へと移す詩人も子供っぽいのであり、詩人はこのように子供であることによって馬や自然と一体となる。漱石の則天去私は漱石晩年の観念であり、どうやら知的に理解された天(自然)との一体化が主題であるようだが、暮鳥のそれはずっと子供っぽく、ずっと原始的なのである。

この自然との一体化は他の「馬」の詩にも見られる。

だあれもゐない
馬が
水の匂ひを
かいでゐる


この詩は人間不在の境地であり、馬は何も食べているのではないことから欲望から自由な世界であり、とはいえ水の匂いを嗅いでいるのだから馬は周囲の事物と交流しているのであり、そして自然とは言いながら蝶々も花もなく、色彩らしい色彩を欠いていることから、この自然は表層的ではなくて深層に見られる、美を超えた美が描き出されている。それは生物を超えた生命あるいは肉体なき生命でもある、本能とは無縁だからである。人間のいる、人間に飼いならされた自然でなくて、自然そのものとしての自然であり、自然の深奥なのである。

26
山村暮鳥は、詩集『雲』において無の境地に到る過程を描き出している。

たつぷりと
水をたたへた
田んぼだ
代(しろ)かき馬がたのくろで
げんげの花を食べてゐる

馬よ
そんなにおほきななりをして
こどものやうに
からだまで
洗つてもらつてゐるんか
あ、螢だ

だあれもゐない
馬が
水の匂ひを
かいでゐる

     春の河

たつぷりと
春の河は
ながれてゐるのか
ゐないのか
ういてゐる
藁くづのうごくので
それとしられる

「たつぷりと」の詩は「田んぼ」が見え、馬は「げんげの花をたべてゐる」ので人間がおり、本能の働く自然である。「馬よ」の作品は、人間によって体を洗ってもらっているので人間のいる自然である。「だあれもゐない」の作では、人間のいない、動物だけがいる自然が描かれている。そして馬の連作からは離れるが、「春の河」では、馬もおらず「藁くづ」とあるだけなので、動物も植物ももちろん人間もおらず、生きているものはどこにもいない自然である。自然がよりいっそう研ぎ澄まされていき、その深奥が曝け出されていくのだが、それにしても全体としてはきわめて長閑なものであり、ゆえにある種の気品も喪失されていないのである。田舎の日常的自然から生物なき超絶的生命世界へと徐々に進んでいるのである。生物がいないのになぜ生命的世界であるのかと言えば、水が流れ何ものかが微かに動くので、生物がなくとも生命は存在していると言えるのである。

暮鳥の自然観は、生物なき生命の自然であり、それは古代ギリシアの自然哲学者の観想した自然と親しい。それは物活論を東洋的詩想で言い表したもの、と言えるのかもしれない。あるいは、それは(中国哲学の)気の詩想と言えるのかもしれない。

27
暮鳥の詩境は定家のような有無の対比によって無を浮き立たせるものではなく、さりとて絶対無でもない。それは抑制された筆致で有を描くことにより、そして生命の脈動が息吹きながらも生物のいない、有とも無とも言い難い世界を描くことにより、無を曝け出す方法をとる。動きは飽くまでも物静かであり、微かであり、仄かである。「月」がそうである。

       月

ほつかりと
月がでた
丘の上をのつそりのつそり
だれだらう、あるいてゐるぞ

月は無生物的生命世界である。丘の上をのっそりと誰かが歩いているが、その動きはゆっくりであり、その者には明確な輪郭がないので、この有は希薄である。もう一つの作品もそうだ。

       月

竹林の
ふかい夜霧だな
遠い野茨のにほひもする
どこかに
あるからだらう
月がよ

竹林や野茨があって生物な存在するにしても、竹林は深い夜霧に包まれよくは見えず、野茨は匂いはしても遠くに位置している。生物のもつ生々しさはどこまでも希薄である。そしてどちらの作品にも人の気配はない。

山村暮鳥といえば、処女詩集『三人の処女』にある「あらし/あらし/しだれやなぎに光あれ」の「だんす」や、「いちめんのなのはな」に始まる「風景」などの、試みとしては面白いが人の心をさほど深く打つものではない作が有名である。しかし私は最晩年の『雲』の詩集のほうが評価すべきものと考える。



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