運動否定論4 同義反復の背理 ―マハーヴィーラと竜樹―

「頭が痛い」とは言い得ても、「頭痛が痛い」とは言い得ない。一つの主体が二つの作用を伴うわけにはいかないからである。手短に言えば、これは同義反復の背理である。「頭痛が痛い」は、「頭が痛くて痛い」と同内容であり、それは「痛い」という動詞が反復するのであり、同義反復は一体一用の原理から背理となるのである。同じく、「去りつつある者が去る」といえば、「ある者が去りつつあって去る」と同内容であり、同義反復するがゆえに背理なのである。ゆえに竜樹は、「去りつつある者が去る」ことはあり得ないとして、運動を否定することになる。

また、竜樹は同義反復の背理から無の消滅を否定する。「無であるものの消滅することも、また起こりえない。あたかも第二の頭を切断することが起こりえないようなものである」(『中論』第7章31)。なぜなら無の消滅は「無いものが無くなる」と同内容であり、「もの」という一つの主語が二つの「無い」という述語を伴うことになり、それはあたかも一つの頭しかない人間から二つの頭を切り取るような背理なのである。

同義反復の背理はマハーヴィーラが先鞭をつけた(以下に『全哲学綱要』サーヤナ・マータヴァ著、第3章「ジャイナ教綱要」(原題「阿羅漢の教え」)を参照する。『世界の名著1』より)。マハーヴィーラによれば、有るものの本質は存在であることも非存在であることもできない。なぜなら、もし有るものの本質が存在ならば、「有るものが有る」となり、「頭痛が痛い」と同様に同義反復となって背理だからである。また、もし有るものの本質が非存在であるならば、「有るものが有らぬ」となり、「頭痛が痛くない」といえば「痛い」と「痛くない」とが矛盾してあり得ないのと同様に、「有る」と「有らぬ」が矛盾してあり得ないからである。要約すれば、有るものの本質が存在ならば「有るものは有る」という同一律となり、同義反復の背理に陥る(同一律は論理学的には妥当であるとしても、マハーヴィーラや竜樹の観点からすれば背理なのである)。有るものの本質が非存在ならば「有るものは有らぬ」となり、矛盾律によって背理となる。有るものの本質は存在でもなければ非存在でもないのである。

この行き詰まりはどうすれば抜けられるのか。マハーヴィーラによれば、ものはすべて多様な性質から構成される。その全側面は知りえないので、すべて命題には「ある観点からすれば」または「何らかの仕方で」と付言すればよい。ある観点からすれば、有るものの本質は存在であり、また別の観点からすれば、有るものの本質は非存在なのである。そしてマハーヴィーラは厳かに説く、「他の教学は、相互に、主張に対しては反主張を重ねるから、互いに妬みあう。しかしおん身(マハーヴィーラ)の教えは、すべての観察点を等しく認めて偏見をもたない」と。

このようにしてみると、同義反復の背理はマハーヴィーラに始まり、それを竜樹が一体一用説によって精緻化した、と言えそうである。

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