シュライエルマッハー覚書
以下は、シュライエルマッハー(いまではシュライアマハーというんですね)に関する覚書。彼の本はいまだ読めないでいるのだが、ネット上のあれやこれやを参考に、現段階までのまとめになる。シュライエルマッハーはその絶対依存感情なる概念を詳しく知りたいがために、調べているところ。以降も書き足す所存。後に参照したネット上のURLを挙げる。
シュライエルマッハーは『宗教論』で言う。宗教の本質は神秘体験であり、それを可能とするのが「宇宙の直観と感情」だ。即ち宇宙を直観して何らかの感情を抱くことだ。形而上学は宇宙の性質を定義し説明しようとし、道徳は自由意志でもって宇宙を発展完成させようとする。宗教は宇宙を直観しようとし、宇宙自身の表現と行為の内にあって、敬虔の念をもって宇宙に耳を傾け、幼児さながら受身の態度で宇宙からの直接的影響受けて満たされようとする。宗教の本質たる直観と感情は人間を宇宙の神聖なる一部として宗教の手から受け取ることだ。
「直観」とは人間の主体的行為というより宇宙が人間に及ぼす影響を指す。世界内の出来事はすべて宇宙からの働き掛けであり、直観とはそれに耳を傾け、幼児さながら受容することだ。「感情」とは対象と人間とを仲介するものを言う。感情が強いほど宗教心は深くなる。感情なき直観は無であり、直観なき感情も無であり、両者は一如だ。
宗教とは宇宙における一切の出来事を神の行為として示すことだ。宇宙は全体・無限者・一にして全体であり、神的統一・永遠であり、神即自然だ。だから自然を超えた奇跡はあり得ない、何故ならあらゆる事象は神の出来事であって神の行為だからであり、あらゆる事象が神の行為という意味であらゆる事象が奇跡となる。
シュライエルマッハーはまた『信仰論』で「宇宙の直観と感情」を「絶対的依存感情」と言い換える。すると直観とは自らが神に絶対的に依存していることを自覚することを意味し、感情とは自己と神とを結び付ける紐帯となる。直観により神が(朧ろながら)顕現し、感情により神と仲介される。そして直観が自己非定立と言い換えられる。直観とは自己非定立であり他者の受容性だ。自己を定立しないことにより他者が定立されるのだ。
意識は自己意識であり、自己定立と自己非定立がある。a)自己定立とは意識が自己自身を措定する意識であり〔自発的活動〕、b)自己非定立とは自己が自己を意識する際にこの自己意識が他者に由来する場合を言う〔受容性〕。他者と共存すれば我々は他者に触発されるので受容の意識を有する。a)自発的活動の意識は「自由感情」であり、b)受容性の意識は「依存感情」となる。
自己意識は三段階に発達する。1)自己意識と対象意識が錯綜する未分化の混沌たる動物的意識。2)感覚的自己意識であり、主客分離し、自由感情と依存感情が区別されるが、感情は絶対的でなく、自由感情と依存感情は相対的。3)絶対的依存の感情。1)は自他未分化であり、2)は自他分化となり、3)は自他再未分化となる。西洋文明の前近代が1)自他未分化であり、近代化が2)自他分化を意味するとすれば、シュライエルマッハーの3)絶対的依存の感情即ち自他の再未分化を主張するならば、ある意味でシュライエルマッハーはポスト・モダン的となり、ロシアの哲学者の言葉で言えば、「新たなる中世」となる。
絶対的依存感情は自由感情を含まない。依存するとは自己が世界の全体と一如となり、有限的精神そのものとなりきり、絶対的に依存的なものとして自覚されることだ。これは『宗教論』で言われた、宇宙の直観と感情において自己と宇宙が一如となり、即ち有限的精神が無限と一体化して無限を映し出すことと同義だ。「我々の受容的かつ自己活動的現存在のこの自己意識のうちにともに措定された〈由来(Woher)〉こそまさに神という言表で表示されるべきであり、そしてこのことが我々にとって、神という言表の真に根源的な意味である」。絶対的依存の感情は自己を超越した無限者に由来する。「自己を絶対に依存的なものとして感じることと自己自身を神と関係するものとして意識することは同一」だ。即ち、絶対的依存の感情とは神の意識のことだ。
神について知るには、正統的神学も啓蒙主義的理神論も不十分だ。教会の神学は神が聖書を通して人間に語り掛けるという「上からの」権威主義的性格が強く、啓蒙された人間の自律性を無視し、神に関する教義と神そのものを混同している。他方、「下からの」理神論は宗教に関しては一般化された哲学的観念を付与するだけだ。
啓蒙主義的哲学で言えば、カントの道徳説もヘーゲルの形而上学も同じく不十分だ。カントの道徳説は純粋理性を批判的に検討し、これを実践理性により乗り越えようとした。ヘーゲルの形而上学は弁証法的歴史哲学でもって神を説明しようとした。しかしどちらも人間の直観を無視した。
直観と感情は一如であり、感情とは宗教的敬虔の感情を指す。宗教的敬虔は道徳的行為や形而上学的思考を超える。敬虔は絶対依存の感情に始まる。この感情は単なる神への畏敬の念に尽きるものでなく、それは「有限なる事物の中に、また有限なる事物を通して自らを顕現する無限者に完全に依存しているという感情」を言う。人間が自らの有限性を知り、自らが存在するためには何らかの他者に完全に依存していると悟る時、人間は畏怖と驚異の念に打たれる。それは「無限と永遠の直接的直覚」「自然と一体化された感覚」「宗教的自己意識」「世界精神の生を受容すること」「神と関連すること」「神の意識」「自己意識における神との共存」「我々自身と世界の内部に見出される神性の直接的意識」などと言う。これらはすべて絶対的依存の感情と同義だとみなし得る。
神の意識は人間の本性には不可欠であり、この意識は専ら我々自身の精神の内部に見出される。神の意識を見出だすには自らの意識に目を向ければよく、この意識はしばしばか弱く抑圧されてはいるが、確かに万人の心に内在し、内省を通じて誰しもそれに覚醒し得るという意味で直接的だ。我々の神との関係は潜在的自己意識の事象であり、自己意識は自己意識それ自体が思考の内に反映されているのを見て、そこに含まれている神の意識を見出だすのだ。
シュライエルマッハーの神学は感情の神学であり自覚の神学だ。その方法論はあらゆる宗教と神学を「神への絶対依存の感情」即ち「神の意識」を通して見るものだ。神の意識とは神を自らの内部にかつ直接的に意識することであり、神を意識することとは神に対する絶対依存の感情を抱くことだ。
神は人格的だが所謂人格神でなく、人間の絶対依存の感情が何らかの対象を有するという意味で人間的即ち人格的だ。しかし神は物体のようにはあしらえず、また神を世界から分離することもできない、何故ならそうすれば神を限定することになるから。神を対象視して世界から分離独立したものとすることによって神に様々な属性を付与し得るのだが、そうすれば神は互いに矛盾する属性を有することになる。むしろ神は世界に内在して人間のあらゆる定義を超越するのだ。また神は(罪と赦しを含むところの)万物の究極の原因であり、万物を秩序づけるので、自然現象とは別に奇跡を起こしたり祈りに応えたりすることはない。シュライエルマッハーにとっては森羅万象が奇跡となる。
物は時間と空間の内部に他の物と並んで存在し、経験的知覚対象であり、悟性の働きにより把握され得る。しかし宗教的対象たる神は無限なので時間と空間を超え、他の物に限定されず、経験的知覚対象ではないので、悟性の出番もない。故に、宗教的対象たる神は感覚の対象となる。神の把握は意識の原初的統一を通してのみ可能であり、それは主客未分の状態においてのみとなる。
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親鸞やパウロやルターにとって人間の本質は悪だから、人間とは異なる絶対他者としての超越者が要請され、超越者と一体化することによって、人間は超越者の自由としての人間の自由を獲得する。しかし、人間は善なるものであって善なる超越者との一体化が可能だとするロマン主義の時代を生きたシュライエルマッハーは(この時代は同時にスピノザの汎神論の時代でもあったが)、その背景が異なる。パウロや親鸞にとって超越者は外なる超越者だが、シュライエルマッハーにとっては超越者は他者ながら内において確認される。神は内在神であるので、私の外部の自然界にも存在すれば私の内部の意識にも存在するのだ。シュライエルマッハー説な人間に仏性ありとする道元に近しいかもしれない。
シュライエルマッハーは宗教論で宗教を「無限への感覚と趣味」「無限の中での、かつ無限を通してのあらゆる有限的事物の普遍的存在を直接的に意識すること」「直接的感覚の中での生を知りかつ生を生きること」だとする。直接的感覚とは神の意識であり絶対的依存の感情だが、この感情を抱きつつ日々を生きることになろうか。では、この感情を抱きながら生きるというのはどういうことなのか。
アインシュタイン流には「宗教と科学の一致」を説くが、シュライエルマッハー的にはむしろ「宗教と詩歌の一致」が唱えられる。これは広く「宗教と芸術の一致」とも呼び得る。
(以上、20240414現在)
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