能因の「山里の…」

山里の春の夕暮れ来てみれば入相の鐘に花ぞ散りける

新古今和歌集の能因の作だ。入相とは夕暮れに入る頃合いを言い、全体として素直に詠まれ、特に難解なところがない。

この和歌が私の気に入った理由は、何処にも作者の小煩い自我のないからだ。泣いたり憂えたり悩んだり愚痴を言ったり、自分が表出するものであれ、他人の表出に居合わせるのであれ、自我とはとにもかくにも疲れるものだ。そんなことに振り回されるよりも、何ら自我を抱かずにお茶でも呑んでノホホンとしているほうが、いまの私はナンボ楽かしれない。

私は最近は自我を前面に出す作品よりも、何ら自分を出さない作品のほうが、落ち着いて楽しめることが多い。その一つがこの和歌だ。山里の春をたまたま足を運んだわけだが、たまたま夕暮れとなり、鐘が鳴り渡って至る所で桜の花が散っている。それだけであり、作者の感情は何ら描かれておらず、安心して読めるのだ。しかも偶然のこの巡り合わせの何と美しいこと。

大隈言道の「流れくる花に浮かびてそばえてはまた瀬をのぼる春の若鮎」と比べてみる。言道の和歌は叙景歌であって、何処にも人間が存在しない。存在するのは若鮎であり、花であり、川だ。それを歌人が見て詠むのだが、少なくとも作品の上では無人だ。対して、能因の作品には「来てみれば」とあって人間が存在する。とはいってもその背景は何ら描かれておらず、人間は飽くまで叙景を歌にする役割を担うに過ぎず、無人の境に近いと言えば近い。私はこのような心境を戯れに〔無人境〕と呼ぶことにする。人がおらず、いたとしても人の息づかいのしない歌だ。

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