文学談義

シェリーの詩を試みに訳しつつバイロンについて調べているが、調べるほどにロシアの「余計者」なる概念はロシア近代史に固有の現象というよりは、むしろ「バイロン的英雄」からの派生ではあるまいか、という疑念が禁じ得ない。バイロンもある意味で世間に順応できない「余計者」だったかもしれないが。

私見では、ロシアの余計者文学が20世紀の不条理文学に連なるのであり、歴史的流れを無視していえば、サルトルの『嘔吐』が余計者文学と不条理文学を繋ぐ橋であり(ロカンタンは社会にうまく溶け込んでおらず、彼の幻視したものは不条理それ自体だから)、故に余計者と不条理にある種の繋がりが見出されるのであり、そこに私は興味を抱くのだが、余計者の概念を遡ればついにバイロンに到るのでは、と考えたのだ。というのも、プーシキンの『オネーギン』にせよレールモントフの『現代の英雄』にせよ、バイロン的英雄あるいはバイロンその人と親和的であるように感じられるのだ。

話は飛ぶが、かって紫式部の『源氏物語』は儒家や僧侶からふしだらであるがゆえに手厳しく酷評され、あんな作品を物した紫式部は地獄に落ちた、とまで難詰された。文学作品を倫理的観点から非難するのは洋の東西を問わず、レールモントフの『現代の英雄』も然り。小説はどこかしらピカレスクの風味を帯びているからであり、『現代の英雄』は時のロシア皇帝の不興を大いに買ったという。近代日本では鴎外の『舞姫』もそうで、主人公の非道ぶりに一部では非難ごうごうだったそうな。チャタレー夫人翻訳を巡る事情を待つまでもなく、倫理と文学は時に拮抗するのだろう。

レールモントフに言わせれば、当時のロシアの風潮を客観的に描いたに過ぎないのであり、鴎外の『舞姫』に至っては作者と語り手を混同したのではないか、とすら勘繰ってしまう。宣長ではないが、これらの作品については、文学の自律性を認めてもよいのではないか、と私は思うのだが。

いまいるところにうまく順応できないから外へ外へと出ていくのがバイロン的英雄であったり英雄であったりするならば、キルケゴールの哲学ともどこかで接合されていそうだ。私はどうもキルケゴールをロマン主義との兼ね合いで捉えたくなる。ちなみに、世間に順応できずに内に籠れば、ひきこもりとなる。

「超人的知性の持ち主だが、余りに醜悪で世間に受け入れられず、放浪せざるを得ない」と書けば、誰を連想するだろうか。醜悪が内面のそれならば、悪辣で狂気で知り合えば危険と散々な非難をされたバイロン(シェリーとも)となるが、醜悪が外面のそれならばシェリー夫人のフランケンシュタインとなる。

『フランケンシュタイン、または現代のプロメテウス』はSF小説ともされるが、この作はシェリー夫人の自覚しないところで作者本人を取巻く狂気の天才たちの一側面を描き出したのでは、と密かに疑っている。作中の怪物と世間の関係性がロマン主義詩人たちと世間のそれと類似するように思えるからだ。

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