漂白

 きみは、この部屋から出ない。

 僕が毎週金曜日の夜にこの部屋を訪れると、きみはまず玄関でアルコール消毒をうながし、そのあと僕にシャワーを浴びるように命じる。そしてきみの用意した清潔な衣類に着替えて、ようやくきみの住むテリトリーに入ることができる。
 全体的に白い部屋。ものが少ないせいかお世辞にも居心地がいいとは言えなさそうだが、きみは──少なくとも僕のいる間には──どこかに出かけるそぶりも一切見せず、ほとんどの時間をフローリングの床に座って過ごす。
「きょうは、シチューを作るよ」
「黒? 白?」
「白」
 どうでもいいけど、ときみは言う。嬉しそうでも、迷惑そうでもない表情をして。
 二口ぶんくらいの白米におたま一杯のシチューをかけて、彼女はスプーンでもそもそと食べる。キッチンもあまり使われている様子ではないが、普段はなにを食べて生きているのだろう。僕のいない間は、外に出て働いたり買い物をしたりしているのだろうか。不健康なまでに白い肌や痩せた身体からはそれも想像しにくいが、きみはそういったこと、外の世界のことや過去のことをあまり話したがらない。
 ふたりでシチューを食べ終わると、きみはふたり分の皿をシンクに運び、時間をかけて洗う。
「おいしかった?」
 僕が問うと、きみは泡まみれのスポンジを手にしたままほんの僅かに頷く。
「きょうも、仕事だったの」
 毎週金曜日にしか来ないからほとんどの場合は仕事帰りなのだが、何度教えても忘れてしまうのか、彼女は毎回おなじ質問をする。
 そうだよ、と僕が言うと、彼女はかるく顎を引くようにして頷く。口にはしないけれど、「どうでもいいけど」と言うときと同じ表情をしている。なにを考えているのか、僕にはよくわからないけれど。

 狭いシングルベッドに、ふたりで横たわる。部屋を暗くしてしまうと、外の明るさを受けて、きみの身体の輪郭だけがぼんやりと見える。
「いつもなにを考えてるの」
 ここにいるとき。きみは夜になると、少しだけ口数が増える。
「きみに食べてほしいごはんのこととか、明日の天気のこととか……いろいろだよ」
 そう、ときみは言う。
「いつもきみはこの部屋にいるの?」
「いるときもあるし、いないときもある」
 あたりまえでしょう、と言わんばかりの声色。
 ソファーを買おうか、と僕が言うと、彼女は少し身じろぎをする。髪がシーツに擦れる音だけが、明瞭にきこえた。
「ひつようない」
 彼女の声はいつも、ささやくようにすこし掠れる。単語やセンテンスのようなまとまりというよりは、ひとつひとつの音がばらけて聞こえるから、注意ぶかく聞いていなければ見落としてしまいそうになる。
「ほんとうは、なにもいらないのに」
 なにもなければいいのに、ときみは言ってから、表情を隠すように僕に背を向けた。肩甲骨のあたりの凹凸だけが、暗闇の中でもわずかにわかった。
 なにもなければいい。と僕は口に出して反復する。
「きたないものを、はこんでくるから」
 きみの背中越しに少しくぐもった声が届く。
「わからないでほしい」
 少しだけ乱れたきみの声を覆い隠すようにバイクの音が響きわたる。きみはそれ以上、もうなにも言わない。寝ているのか起きているのかも分からない。僕はきみに触れないよう、身体をできるだけ縮めて目を閉じる。規則ただしい呼吸の音だけが、きみのまわりの空気をふるわせている。

 思えば、不思議な関係だった。ある春の晩に彼女が道端に小さくなって座っていて、あまりにも痩せていて寒そうにしていたから、普段なら絶対にそんなことはしないのに、声をかけてしまった。濡れた猫みたいだと思って、手をとってしまった。今から考えると、それが彼女をあの部屋以外の場所で見た、最初で最後のことだった。
「また来て。来週」
 僕が彼女をあの部屋に送り届けて、物の少ない戸棚から探し出したティーバッグで紅茶を淹れ、それを飲み干すところを見届け終わると、彼女はそう言った。僕がぎこちない動きで頷くと、彼女は無表情のまま手を振った。
 連絡先も彼女の生活リズムも知らないまま、金曜の夜にあの部屋に向かって、彼女が扉を開けて僕を迎え入れて、それがいつからか習慣になった。僕にとってはもう「いつものこと」だが、彼女にとってはそうではないのか、いつ訪れてもおどろきと安堵がないまぜになったような表情をのぞかせる。一週間前のことなんて、忘れてしまうのだろうか?
 彼女は、なにも語りたがらなかった。僕にいくつかの質問をしては、ほとんどの場合「どうでもいいけど」と言って(言わなかったとしても)関心のなさそうな顔をするのだった。夜になるとわずかに口数が増えて、それでも彼女は彼女自身のことをあまり説明しなかった。言葉はぽろぽろと崩れるように欠落していて、その欠落を認識していながら補おうとはしない。
 僕が彼女に恋愛感情を抱いているかと言われれば、たぶん違う。彼女も僕に恋をしているというわけではないだろう。彼女の連絡先は、今もまだ知らない。

「いつかここに来てくれなくなる日がくるとおもう」
 布団の中で、僕のほうを見ることもなく呟く。僕はこたえるべき言葉を探し当てることができずに、仰向けに寝そべるきみの横顔を見ている。
「いつか、いつか……失望する」
 僕は居心地の悪さを誤魔化すように、髪をくしゃくしゃと乱す。そんなことないよ、と告げるのは簡単なことだが、きみに対してだけは無責任なことを言えないでいた。それはきみが最も嫌うことだと、よくよく分かっていたから。
 きみとの関係のことを、僕は誰にも言わないでいた。誰かに解釈されたくなかった。名前がないのなら、ないままでよかった。どうせ言葉を尽くしたって分かり合えないのだ、他人とは──きみとも。
「ほんとうはなにを考えてるの、って訊いても、それがほんとうにほんとうかはわからないよね」
 うん、と僕は言う。しばらく黙っていたせいで、声は喉に絡まって、変な方向に転がってしまう。
「わかってもらえたら、いつかわからないと思われることがこわくなる。知ってしまったら、知らない部分がこわくなる」
 きみは顔の筋肉をあまり動かさずに、突然目のふちから涙を流した。それはこめかみのあたりを伝って、髪の中か、あるいはシーツに染み込んでいった。
「だから」
 なにか言葉を続けようとして、喉のあたりでつかえてしまったようだった。しばらくのあいだ、黙ったままで涙が流れるのにまかせていた。
「だから、あなたがわたしのすべてならいいのに」
 僕は、きみに触れることもできなかった。触れたらなくなってしまうと思った。きみの身体や、きみの声や、この部屋そのものさえも。

 絶対に、目が合ったと確信できる。
 彼女は大きめのパーカーを着ていて、その細い脚は無防備にも、なににも覆われることなく外気にさらされている。ガードレールに浅く腰をかけて、サンドウィッチ専門店のBLTサンドかなにかを食べていた。彼女は少しだけ目を見開いて、それから不自然なまでに目を逸らした。
 最初はそれがきみだとは分からなかった。でも、もう何度も見たきみの顔、きみの輪郭、それを僕が見間違えるはずもなかった。
 それから、何度かあの部屋を訪れたが、扉が開くことはなかった。明朝体で「青山」と書かれた表札もそのままだったし、きみがそこにいるという確信めいたものはあったが、閉ざされた扉の前ではきみがその中にいてもいなくても同じことだった。扉の前に書き置きや差し入れのようなものを置いたこともあったが、それが受け取られることはついになかった。いつの間にか季節は巡っていて、インターホンに手を伸ばす僕の肌を寒風が刺した。
 インターホンをいつものように二度鳴らして、いつものように沈黙がおりたあと、なにげなく視線を落とすと、扉についたポストがガムテープで塞がれているのが目に入った。ガムテープには「転居済」と油性マーカーで書かれていた。きみの字を見たことはなかったから、それがきみの書いたものかどうかは分からない。きみの字も知らないなと、そう思った瞬間に、僕の胸のあたりに紙で指先を切ったときのような痛みが走った。
 ずっときみを傷つけたくないと思っていた。しかし、傷つけられたくないと思っていたのは僕のほうだったと、切り傷のような痛みが僕の胸に這ってからようやく思い至ったのだった。
 僕は、きみのすべてになることはできない。きみはそんなこと、ほんとうは望んでいないのかもしれないけれど。きみが僕のすべてになることができないように。
 僕はあの部屋をあとにした。胸に鋭利な痛みの刺さったまま。僕たちはずっと別々なのだった。これまでも、これからも。

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