先天性心疾患持ちミドサーの急性骨髄性白血病治療①
謎の発熱が続き、「コロナなのか、感染性心内膜炎なのか」とやきもきした結果、白血病が分かった話です。
病気が発覚した経緯はこちらから。
2022年6月17日
朝一番で異動の発令を受けるはずだったのに、何故か大荷物を抱えてタクシーに乗っていた。
最低入院期間は約1ヶ月、何が起きるかも良く分からないまま入院手続きのカウンターに行った。
親友からお見舞いと称してびっくりするような額のAmazonギフトカードが送られてきた。
38度もあると入院するにも一苦労
受付のプロセスの中で検温があり、計ると前日同様に38度を超えていた。
受付の方は少し待つようにとこちらに伝えたあと、色々なところに連絡をし始めた。
「今更熱があるから入院出来ませんなんて話にはならないよな…」
と思いながら待った。
血液内科の病棟の看護師長さんがやってきて、
・申し訳ないが再度PCRを受けて欲しい
・CTも受けて欲しい
という2点を告げられた。
昨日もうPCRしたじゃん!と思ったが仕方ない。
入院してしまう前に夫と過ごせる時間が増えたと思うことにした。
PCRもCTも終え、2時間程経つと担当医からPCRの陰性が分かったので病棟に上がってくるように連絡があった。
ここで夫とはしばしの別れとなる。
夫は病棟の1Fまでしか来られない。
この先は一人で心を保っていかないといけないんだと思いながら病棟のエレベーターに乗った。
予定外のPCRとCT、またその結果待ちに時間がかかったせいで、当初の入院予定時間を大幅に過ぎての入院となってしまった。
荷物を置いてすぐ、「これからPICCを入れるので同意書にサインしてください」と言われた。
治療方針の説明や、輸血を使うことに関してなど、他にもいくつかの同意書にサインをした。
はじめてのPICC
PICC (Peripherally Inserted Central venous Catheter) とは、二の腕から挿入する静脈カテーテルのことだ。
白血病治療では強力な抗がん剤を使うため、通常の点滴では抹消の血管がボロボロになってしまう。
そのため、PICCにより心臓すぐ近くの大静脈に直接抗がん剤を投与する。
PICCを入れると点滴のラインが2本(太いPICCが入れられる場合は3本)確保出来るので、点滴の刺し場所に困るといったこともない。
化学療法中は血小板が減ったりもするので、ワーファリンの服用を止め、代わりにPICCからヘパリンを投与することで凝血コントロールをすることになった。
PICC挿入時、まずは挿入部以外をカバーで覆い(この時点で顔にもカバーがかかって何も見えなくなる)、2回消毒をしてから、ガイドワイヤーというものを刺して目的地点まで通す。まずこれがむちゃくちゃ痛い。担当医が言うには点滴用の針を使っており、特に太い針を用いているわけではないそうなのだが、皮膚が柔らかいからなのか本当に痛い。
ワイヤーが目的地点まで通ったら、挿入部に麻酔の注射をして、皮膚を広げてPICC本体を通す。
都度都度放射線で体を写し、ワイヤーやPICCが狙った通りに入っているか確認をし、必要に応じてもっと挿入を進めたり、逆に少し引き抜いたりする。
PICCの先端が目的地点に達したらガイドワイヤーを抜き、専用のテープでPICCを上腕部に固定する。
病院によってやり方に微妙な差異はあるかもしれないが、わたしはこのPICC挿入が毎回怖くて仕方なかった。
採血は幼少期から余裕、点滴もまぁライン確保に失敗されなければ…と思っていたわたしだが、生まれて初めて医療行為を怖いと思った。
PICCは一時帰宅の前に抜いてもらうのだが、再入院の時にまた入れ直さないといけないのだ。毎月1回はPICCを入れる計算だ。
特に初回は、ワイヤーが大静脈ではなく首の静脈に行ってしまい首に激痛が走った。
本来であれば首の静脈にワイヤーが行ってしまわないように患者は首を捻るので、この時はわたしの首の捻り方が足りなかったのだと思う。
何度目かからは、処置の最中に「何で鎮静剤をかけて眠らせてくれないんですか」などと主治医や担当医に文句を言っていた。
初めてのPICCを挿入された後は、割とショックを受けた状態で、呆然としながら処置室をあとにした。
入院日は木曜で、この日は担当医からは
「まずは週末ゆっくり休んで今の喉の痛みと発熱を治して、週明けから化学療法を始めましょう」
と言われた。
CTの結果、肺炎でないことも分かったと伝えられた。
2022年6月18日
「白血病の進行が早いので、予定を早めて今日から化学療法を始めます」
と言われ、昼から抗がん剤の投与が始まった。
「今週のうちに入院出来てよかったですね」
と言われ、血の気が引いた。
相変わらず喉は痛いし熱もあるが、それが治るのを待つ時間的猶予がなかったことに驚いた。
一昨日、採血をしていなかったらわたしの運命はどうなっていたんだろう。
一方で、入院2日目にして早速上司がお見舞いを送ってくれた。
「入院中は出来るだけ笑って過ごしたい」という希望を叶えてくれたのだ。
循環器の主治医がみずから心エコーをとってくれ、化学療法前の心臓の状態をモニタしてくれた。
昨日の今日という事態だったので、
「この度は誠にお騒がせしてしまいまして…」
と言ってしまった。
寛解導入療法
初回の化学療法は「寛解導入療法」と呼ばれ、ここで骨髄内の白血病細胞の割合を5%以下にし、「寛解」と呼ばれる状態に持っていくことが目的となる。
わたしの場合は以下の2種類の抗がん剤が使われた。
・キロサイド: 24時間連続投与×7日間
・イダマイシン: 30分×3日間
また、毎日吐き気止めの服用と点滴がある。
初日の夜から早速動悸と頭痛が始まった。
6月21日
抗がん剤が順調に効いているようだと聞かされる。まずは死の淵から生還したのかなと思う。
一方で、白血病細胞は減ってきているが、入院前日に行ったマルク(骨髄検査)の結果、予後中間群であることを告げられた。
急性骨髄性白血病の予後は
・化学療法だけで寛解が見込める予後良好群
・化学療法だけでは再発するリスクの高い予後不良群
・その中間(化学療法だけで良いとも悪いとも言えない)となる予後中間群
の3つに分類され、どれに分類されるかは遺伝子レベルで決まる。
わたしは「予後が良くなる遺伝子も悪くなる遺伝子もどちらも出なかった」と言われた。
6月24日
まだ造血幹細胞移植を適用するかは医師の間でも結論が出ていないが、予めHLA型を調べたいと言われた。
HLAというのは簡単に言えば「白血球の血液型」だ。一般的な輸血では赤血球の型が合うものを使う必要があるが、造血幹細胞移植はこのHLA型が一致するものを移植する必要がある。
わたしには弟がいるため、弟からの移植も視野に入れて弟のHLA型も調べることになった。
ふたりの検査費用で8〜9万円ほど保険外で費用がかかった。仮に移植になれば、この検査費用はあとから保険適用になるらしい。
親からは「いとことかに頼めないか」などと言われたが、きょうだいでもHLA型が一致する確率は1/4なので、いとこで型が一致する確率は更に低い。
通常血縁内でHLA型を調べるのは二親等までで、それ以上に手を広げるよりは骨髄バンクでHLA型が一致するドナーを探す方が優先される。
人工弁と化学療法
わたしは心臓の中の僧帽弁という弁を人工弁に入れ替えている。人工弁はカーボンで出来ているので、自前の弁と違って伸縮性がない。
更に、同じく心臓にある三尖弁という弁も幼少期の手術で形成術を受けており、健常な人の心臓と比べると弁を通して血を流せるキャパに限界がある。
だから、大量に血液が流れるような有酸素運動、持久力を要する行動が出来ない。
抗がん剤の投与時には、抗がん剤と抗がん剤で破壊した白血病細胞を速やかに排泄するために生理食塩水の投与も同時に行われる。
よって、抗がん剤が投与される1週間はPICCから大量の液体が心臓のすぐ近くまで流される。
わたしの人工弁と、形成されている三尖弁、この2つの弁が、大量の点滴の圧に耐えられるか?がわたしの治療においてキモになる部分のひとつとなる。
という話を、入院日にエコーされながら主治医から聞いた。
化学療法の副作用
化学療法の副作用には色々あるが、だいたい皆に共通するのは以下ではないかと思う。
・吐き気・嘔吐・食欲不振
・味覚障害
・下痢
・口内炎・口腔内粘膜障害
・骨髄抑制期中の感染症
・脱毛
・不妊
骨髄抑制
化学療法では抗がん剤で白血病細胞を殺すと同時に、正常な血球も作られなくなってしまう。
特に抗がん剤の投与が始まって2〜3週間の間は骨髄抑制期と呼ばれ、血中における白血球の数が異様に少ないため、感染症に気をつける必要がある。無菌室に入るのもこのためだ。食事にも制限が出る。
赤血球や血小板も作られなくなってしまうため、赤血球と血小板の輸血を交互にほぼ毎日行う。同日に両方輸血する日もある。
血小板が底をついた時には脚に紫斑が出て、その見た目が気持ち悪くて受け入れられなくなったりした。
不妊
これは入院前日に説明された。
時間に猶予があれば、あらかじめ卵子や受精卵、精子を凍結する、いわゆる「妊孕性温存」をしてから治療に臨むケースもあるようだった。
しかし急性の場合ではそんなことを言っている余裕がないのが実情ではないかと思う。
幸か不幸か、わたしは先天性心疾患のおかげで元々妊娠出産を視野に入れていなかったので、不妊になる可能性について告げられた時も「あっそうですかいいですいいです」と言って終えてしまった。
これは元から言っていることだが、もし本当に心の底から育児を体験してみたくなったら、里親制度に登録してみようと思っている。
吐き気
吐き気も化学療法の2日目から始まった。
嘔吐までは行かなかったが、「世の妊婦さんの悪阻というのはこんな感じなんだろうか」とぼんやり考えながらベッドに横になり、たまに制吐剤を点滴してもらった。
味覚障害
夫には水や麦茶、緑茶のペットボトルを差し入れてもらっていたが、味覚障害が起きてしまい、水と麦茶が苦くて飲めなくなってしまった。以降、夫には基本的には緑茶のペットボトルを差し入れてもらい、たまにミルクティーのような甘い飲み物も一緒に差し入れてもらうことにした(甘みは感じられた)。
この味覚障害は食べ物にも影響があった。
わたしは「ペヤング」も「一平ちゃん 夜店の焼きそば」も好きなのだが、同じカップ焼きそばなのに一平ちゃんの味が感じられなくなったのだ。ペヤングと代わりばんこに食べようと思って両方買ってもらったのに、結局ペヤングだけを食べることになった。
チキンラーメンも差し入れてもらい、最初の一口は「世界一美味い!」と思ったのだが、食べている途中で味がしなくなってしまった。
匂いはするのに、味はしない。
味がしないのに食べないといけないというのは結構精神的にきついな、と思った。
※カップ麺が体に良いか悪いかという議論はここではしません。カップ麺は衛生面において極めて優れた食品であり、特に抗がん剤の影響で食欲が落ちる白血病患者は「とにかく口からカロリーを摂取すること」を最優先事項とするためカップ麺を日常的に食べることが多いです(生活習慣病などで日々の塩分摂取量に制限のある方はこの限りではないと思う)。だいたい食品添加物とか控えるように気をつけていてもご覧の通りがんになったじゃねーか。
下痢
腸も粘膜障害を起こすので、必ずと言っていいほど下痢は起きる。
わたしの場合も例にもれず下痢になった。
ある日、ちょっと気を抜いた時に下痢を漏らしてしまった。もう35歳なのに。
すごくショックを受けながら、「このパンツを洗うのは夫なんだよな」と夫に心の中で謝りながら洗面台でパンツを手洗いした。
ちなみに後日、上司と電話している時に
「こないだおならだと思って出したらうんこ漏れてたんすよ!」
とゲラゲラ笑いながら話してしまった。
聞きながら笑い飛ばしてくれた上司には感謝しかない。
脱毛
化学療法が始まって2週間くらいすると脱毛が始まると説明されたが、それより早く脱毛が始まった。
長年髪をロングにしていたので、初めて脱毛を見つけた時のインパクトは大きかった。
決してテンションの上がる出来事ではない。
看護師さんから
「同じくらいの歳の患者さんで、髪が抜けきってしまう前にバリカンで丸刈りにした方もいましたよ」
と聞き、わたしもそうすることにした。
落ち武者みたいになるよりは潔く坊主にした方が精神衛生に良さそうだったからだ。
治療が終われば髪はまた生える。一生生えないわけじゃない。
以前は病院に出入りの床屋さんがいて剃ってくれたようだったが、コロナ禍でそれもかなわない。病棟にあるバリカンは刃が錆びているため貸し出せないと言われ、生まれてはじめてAmazonでバリカンを買った。
6月26日、髪を剃る前にフルメイクで記念写真を撮った。
写真を撮るのが上手そうな人っていませんかね、と看護師さんに聞いたら、「そしたらSさんがいいですよ」と教えてもらい、Sさんに時間を作ってもらって撮ってもらった。
Sさんは「顔がいい!」「かわヨ!」と言いながらたくさん写真を撮ってくれた。
6月30日、遂にバリカンで髪を剃った。
この時は、Sさんと同期のYさんの2人がかりで剃ってもらった。
まずはヘアドネーションのように髪をブロッキングして結び(結んでいる最中にもぽろぽろ髪が抜けた)、その根元から鋏を入れてもらった。長いままバリカンをすると刃に毛が絡む恐れもあるし、夫に「剃った毛は要るか」と聞いたら「欲しい」と言うので、出来るだけ綺麗に髪を残したかった。
髪の毛がなくなったら泣いてしまうかなと思ったが、2人が和気あいあいと頭の形を褒めてくれながら剃ってくれ、途中で主任クラスの看護師さんも「おっ、やってるね!」と顔を出してくれたこともあり、湿っぽくならずに剃髪を終えることが出来た。
丸坊主にした最初の感想は「頭寒っ!」だった。
鏡で自分の顔を見た時には「まじ出家じゃん」と思った。
40度超えの発熱
わたしが一番苦しんだのが40度を超える発熱が10日ほど続いた時だった。
解熱剤を投与すると一時的に38度くらいまで下がるものの、薬が切れるとたちまち悪寒がしてすぐ40度に逆戻りしてしまう。
悪寒でベッド全体がガタガタ揺れる。熱が上がりきると、ほぼ気絶したように眠る。
解熱剤を投与すると、ものすごい量の発汗がある。夜中にびちょびちょになったことで目を覚まし、熱で朦朧とした頭でナースコールを押し、着替えられるように点滴を一時的に止めてもらい、汗ふきシートで体を拭き、新しい下着とパジャマに着替える。ベッドに敷いたタオルも汗で湿っているので新しく換える。またナースコールを押して、点滴を再開してもらい、寝直す。
こんな夜が何日も続いた。
わたしのいた病院では38度以上の熱が続くと3日おきに血液培養をして菌が検出されないかを見るのだが、何度血液培養をしても菌が検出されないようだった。水のような下痢も続いていたので、お腹の中が感染しているのかもしれないとも言われた。
母からは「代わってあげたい」と言われたが(先天性心疾患の患者さんが親御さんからこれを言われるケースは少なくないんじゃないかと思ったりする)、逆に「いやこれ若くて体力あるうちじゃないと無理な病気じゃない?」と思った。
わたしは急性骨髄性白血病の患者の中では比較的若い方で、40代〜50代で発症するケースが多いらしい。
どうせ発症するなら若いうちで良かったと思った。
結局いつまでも熱の原因が分からず、「消去法でPICCの感染ぐらいしか理由が考えられない」とのことで、最終的にはPICCが感染しているかどうか確証のないままPICCの入れ替えをした。
ただ、主治医のこの判断は正解だったようで、その後は徐々に熱が収まっていった。
夫や家族のサポート
夫は月曜と金曜の週2回、仕事の合間に洗濯物の交換と飲み物の補充のために病院に来てくれることになった。
病院に来てくれても、病棟の1階まで看護師さんやヘルパーさんやクラークさんが荷物を取りに降りて行き(こちらから渡す物があればその時に預けて持って行ってもらう)、1階で夫から荷物を受け取ってまた上がってくるだけだ。
わたしと会えるわけじゃない。
病室の窓越しに「ロミオとジュリエットごっこ」をしたりして寂しさを紛らわせていた。
夫、濃厚接触者になる
コロナ禍になって以来、夫婦ともに在宅勤務を基本としつつ、ごくたまに出社をしていた。
同じ部屋で仕事をしていて「夫はずいぶんブラックな職場にいるな」と思っていたが、フルフレックスなお陰で平日に病院に来てもらうことも出来ていた。
7月上旬に、夫が出社をして丸一日オフィスで部下とミーティングをした日があった。
夫の勤務先は基本的に在宅勤務だし、コロナワクチンは職域接種で1回目の接種が終わっている。そんな会社のメンバーなら大丈夫だろうと信じたくなる気持ちはとても理解が出来る。
それでも、ミーティングの翌日、部下の一人がコロナを発症した。翌々日にはPCRで陽性になり、更にその次の日には入院してしまった。
全員マスクはしていたが、長時間同じ部屋でミーティングをしていたことから、夫は濃厚接触者になってしまった。
熱でうつらうつらしていたところに夫から電話があり、「部下がコロナ陽性になった」「自分も濃厚接触者かもしれない」と告げられた。夫はものすごく動揺していた。
本来なら、わたしは動揺している夫を気遣うべきだった。ましてやデルタ株が流行り始め、世間に恐怖が広がっていた頃だ。
けれど、わたしは反射的に怒ってしまった。
「いまわたしがこういう状況で、下手したら死ぬかもしれないという時になぜわざわざ出社なんかするんだ」「なんでそんな延々と対面でミーティングなんかするんだ」「わたしの病気が治るまで出社はするな」
といったことをバーっと口走ってしまった。
主治医や看護師達に確認をしたが、やはり「濃厚接触者である期間中は病院に来ないで欲しい」と言われてしまった。
2周間の間、着替えの交換と飲み物の調達を、夫に代わって母にお願いする必要があった。
還暦超えの母に頼るミドサー娘
母は都内にあるわたしの実家に住んでいるが、病院へ行くのに片道1時間以上かかる。そして娘のわたしが35歳であるからして、母自身は還暦を超えている。
いまでも都心の会社にフルタイム勤務するパワフルな人だが、夫と違い勤務体系に柔軟性が全くない。
母にはまず土曜に病院に着終わったパジャマや下着を取りに来てもらい、その日のうちに全て洗って乾燥機にかけてもらうことにした。
そして日曜に、その洗った着替えを持ってきてもらうのだ。
飲み物も一緒に差し入れてもらう。
一週間分の着替えを持って1時間以上移動するのはどれだけ負担だっただろうかと思う。
着替えそのものは1周間分以上持って入院していたが、この時ちょうど40度超えの日々と重なっていて、一日に3〜4回ほど着替えることもあった。
本来であれば不衛生なのですべきことではないのだが、汗で湿った下着やタオルをそのへんに干して、乾いたらまた着たりベッドに敷いたりする、ということで何とか着替えのやりくりをした。
もし夫が変わらず週2で来てくれたらこんなことしなくて済んだのに。自分の体臭がほんのり染みた下着を再度着る度に思った。
着替えを持ち帰った母からは「パジャマがびっしょり濡れていてびっくりした」とLINEが来た。
二週間後、無事に夫の観察期間が終わった。
夫が陽性になることもなく、また着替えの受け渡しや飲み物の差し入れを夫にお願いすることにした。
夫の部下の方も無事に退院出来たらしく、とりあえず何とかおさまったことに安心した。
わたしには夫がいてくれて、夫がNGになったら母がいてくれた。
単身赴任していて距離は離れているが父も毎日LINEをくれる。
家から片道1時間くらいのところには弟も住んでいて、必要があれば病院に行くよと言ってくれ、たくさんのSwitchのソフトやタブレット(!)、Spotifyのクーポンを差し入れてくれた。
わたしにはいざとなったらサポートしてくれる家族がいる。
でも家族のいない人、家族と縁遠い人がこんな病気になったら一体どうやって乗り越えればいいんだ?
家族のサポートに依存することを前提に作られている入院というこの仕組みは何なんだ?ということを考えるようになった。
7月9日
循環器の主治医に心エコーをとってもらった。
幸い、心機能に全く問題はなく、弁も無事だし逆流も起きていないということだった。
普段BNPが40〜60の間をうろうろしているわたしだが、この治療の最中にはBNPが150まで上がったことがあり、
「心臓が悪い人みたいじゃん!」
と初めて見る数字に衝撃を受けたりもしていた(実際わたしの心臓は悪い)。
ハードな治療の数々に耐えてくれて、わたしの心臓は本当に優秀だ、運がいいと思った。
会っていない間も主治医はちょくちょくわたしを気にかけて電子カルテをチェックしてくださっていたようで、
「CRPが24とかある日があってびっくりしましたよ」
「心内膜炎でなくてよかったです」
と言われた。
今後は通常の場合よりも感染症コントロールをシビアにしてもらうよう、循環器の主治医から血液内科に伝えてもらうことになった。
7月14日
血液検査の結果が順調なので、このまま熱が落ち着いていけば週末に一時帰宅になると告げられた。
一時帰宅出来る期間は2泊3日と短いが、それでもこのつらい1ヶ月を耐えた身には豪華客船クルーズに乗るくらいに甘美なご褒美に見えた。
一時帰宅により入院期間がリセットされるため、本当は荷物を全て引き上げないといけないのだが、今回は週末の2泊だけの一時帰宅なので、貴重品以外は病室に残して行っても構わない、もちろん万が一盗難等あった場合の責任は取れないけど、と看護師長さんが言ってくれた。
着替えの大半や残った飲食物はありがたく病室へ置いていくことにした。
7月16日
午前中にマルクをし、午後には
「きちんとした結果は週明けまで分からないが、とりあえず白血病細胞は減っているのでちょっとは安心していいよ」
と告げられた。
いわゆる寛解というやつだ。
最初の寛解導入療法で寛解に至ることが出来て本当に良かった。
この時は、これがどれだけ幸運なことかイマイチ分かっていなかった。
週明けに再入院してからは「地固め療法」と言って、抗がん剤の種類を変えた化学療法を始める。
抗がん剤の種類を変えることによって、最初の化学療法で抗がん剤の目をすり抜けた白血病細胞も叩きに行くということだ。
7月17日
このエントリに写真は載せていないが、職場のメンバーや有志一同、会社の同期、プライベートの友人、ミセスインターナショナルのナショナルディレクター伊藤ご夫妻、たくさんの方からお見舞いを送っていただいた。
海外から航空便でリクエストの品を送ってくださった方までいた。
ものだけではなく、冒頭に書いた親友のようにAmazonギフトカードを送ってくれた友人もいた。
たくさんの方に支えられてはじめて前向きに治療に臨むことが出来た。
自分がいかに恵まれているかを噛み締めつつ、2クール目も頑張ろうと思いながら一時病院をあとにした。
近所にある行きつけの焼き鳥屋さんでテイクアウトすることと、ゆっくり湯船に浸かること、何より夫と会えることが嬉しかった。
長くなりすぎたので続きます!
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