見出し画像

2021年に読んだ本ベスト10(第2位~第3位)

[ShortNote:2022.1.8]

第2位 隠れナチを探し出せ 忘却に抗ったナチ・ハンターたちの戦い/アンドリュー・ナゴルスキ

 戦後、姿を隠したり経歴を偽ったりして逃亡したナチ戦犯たちを捕まえて法廷に引きずり出して裁きを受けさせたナチ・ハンターと呼ばれる人たちの話です。アウシュヴィッツ所長のルドルフ・ヘースやホロコースト指導者のアドルフ・アイヒマンのような大物から下っ端の警官や看守までいろいろと出てきます。面白い。特にアイヒマン逮捕のくだりは映画のようでした。

 なぜハンターたちが彼らを捕まえることに執念を燃やしていたのかというと、もちろん復讐心や正義感も少しはあるけどそれがメインではありません。彼らが一番重きを置いたのが彼らのしたことを歴史に残すことでした。

 つまり、「どんなに時が経とうと、誰も『ああ、そんなのは実際に起きたことじゃない。単なるプロパガンダ、嘘八百だ』とは言えないようにするため」だ。言い換えるなら、戦後の裁判は罪人を処罰することだけが目的ではなかった。歴史的記録を残すうえできわめて重要だったのである。(p.63)

 ナチ戦犯たちを放置しておけば、彼らが一体どんなことをしたのか、なぜそんなことをしたのか記録が残らないし、アイヒマンの件のように凶悪な罪を犯した人間の心理や性質について詳しいこともわからず、「ああいうことをやるのは生まれながらの怪物だけだ」と誤解されたままになるかもしれません。故意に事実を歪めたり、本の中に出てくるアンネ・フランクの日記を捏造ではないかと言っていた戦後生まれの高校生のように過小評価したりしてしまう後世の人々が現れるかもしれません。でも元ナチを引きずり出して裁判の場で事実を認定すればそれは実際にこういうことは起こったし、決して大げさなどでもなかったという動かぬ証拠になります。

 アイヒマンやクラウス・バルビーのように偽名で潜伏していたところを捕まえて刑罰を受けさせるところまでいったケースは完全勝利ですが、結局見つけ出した時には既に死んでいたヨーゼフ・メンゲレのケースが敗北だったわけでもありません。メンゲレもいつハンターに捕まるかわからず死ぬまでコソコソ暮らさなければならなかったはずで、決して幸せな余生ではなかったと思います。

 部分的に勝利を収めたように見える西ドイツ首相のクルト・キージンガーや国連事務総長→オーストリア大統領のクルト・ヴァルトハイム(どっちもクルトだ)などもナチだった過去を引きずり出されたおかげでキージンガーは次の選挙で負け、ヴァルトハイムはペルソナ・ノン・グラータ扱いを受け大統領のくせにアメリカなどから入国拒否されて少なからず報いを受けたであろうということです。網にかからなかった小物たちも、大々的に報道されたりフィクションの題材になったりしたハンターの話を見聞きして一生今日も家のドアの前にハンターが立っているかもしれないと怯えて暮らしていたでしょう。

 少し話が逸れますが、インチキコンサルやカルト宗教などの被害に遭った人たちがブログなどで注意喚起をしているのをよく見ます。そんな人たちに「もう昔のことは忘れた方がいい」とか「注目すればするほどつけ上がるだけだから無視すればいい」とか「そんなことに時間を取られるのは無駄」とかコメントする人がたまにいます。現役信者の擁護もあるでしょうが、その中には本当に親切心から言っている第三者もいるんだと思います。その人はブログ等の主が復讐心に囚われていると思って心配しているのかもしれません。

 ですが、こういう言葉は間違っていると私は思います。騙された人たちが「もう過ぎたことだし忘れよう」と黙ってしまったら、ネット上には詐欺師たちの自分に都合のいいようにねじ曲げられた宣伝だけが出ていることになり、そうやって嘘をついて金をむしり取ろうとしている人間だとはまったく知らない人たちがまたホイホイ近づいていって被害に遭うかもしれません。でも彼らの正体を告発する人の言葉がネット上に出て、その名前で検索すれば一緒に悪評も引っかかるようになれば違ってきます。そういうものを見ても「有名人にはアンチがつきもの! 素晴らしい○○さんに嫉妬してるだけ!」と思ってしまう人はどうしてもいてしまうので被害をゼロにすることはできないとしても、減らすことはできるんです。

 種類は違えど、人の道に悖ることをした人たちの行いを歴史に残し、彼らが息のしづらい世界にしていくようにすることは大事なのだと思わされました。


第3位 もうあかんわ日記/岸田奈美

 急に毛色が変わった。デビュー作「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」も今年読んだのですが、こちらの方がよりツボにハマったのでこちらで。父は他界、母は車椅子ユーザー、弟はダウン症、祖母は認知症という岸田家の中で母が入院し、「要の母を失った岸田家の運営は、ピッチャーを引き抜かれた弱小球団または砂上の楼閣のごとくサラサラと崩壊」したため家族にまつわるあらゆることが著者の両肩にのしかかってくることになり、その中での「もうあかんわ」と言いたくなる日々の苦難を綴ったnoteが書籍となったのがこの本です。

 感染性心内膜炎という病気になり、命の保証ができない状態にまで陥った母、役所でのもろもろの手続き、家の壁に穴を掘る犬(?)とさまざまな事件が発生し、その中には深刻になってもおかしくないことも多々あるのですが、この本は一貫してユーモラスな文体で綴られています。

かのチャップリンは、「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言った。

わたしことナミップリンは、「人生は、ひとりで抱え込めば悲劇だが、人に語って笑わせれば喜劇だ」と言いたい。

みんなも心当たりがあるだろう。悲劇は、他人ごとなら抜群におもしろい。

ユーモアがあれば、人間は絶望の底に落っこちない。(p.9)

 ここがこの本の最も伝えたいことを端的に表しています。嘘かと思うほど次から次へと「あかん」ことが発生する岸田家を見て、我々は思う存分笑うことができます。そしてこんな「あかん」ことどもを見て笑えるのは、著者が「あかん」現実をユーモアにさっと湯通しして提示してくれるからに外ならず、「他人ごとの悲劇で笑えるかどうか」は当事者がどのようなニュアンスで伝えてくれるかによって決まるのだと思います。

 そんなユーモアをまぶした文章が素敵です。「犬はマイケル・スコフィールドと同じく、意地でもこの家を脱出しようとしていたのだ。まさか家族から、マイケル・スコフィールドを輩出するとは思わなかった」(プリズン・ブレイクドッグ)「感謝で胸が張り裂けそうとはこのことだが、本当に胸を裂いたので、半永久的にこの表現は使えなくなった」(退院ドナドナ)「織田裕二ですらレインボーブリッジを封鎖できなかったのだ。岸田奈美が洗濯機をそう簡単に封鎖できるわけがない。助けてサムバディトゥナイ」(洗濯際の攻防)などなど。

 でも大事なのは、全部を笑いに変えているわけではないということです。もしかしたら生きている母に会えるのは最後かもしれないという手術前の気持ち、認知症のためこちらの事情をわかってくれない祖母への葛藤、そういったものは茶化さず、ギャグを入れず、まっすぐに綴られています。

 笑いもモヤモヤも心配も巻き込んで、「もうあかん」日々は聖火リレーを走ることになった出来事へと繋がります。巻末の聖火リレーを終えた後の写真が、何気ないけれども「家族っていいなぁ」と思わせてくれます。

 ちなみに私が岸田奈美さんのことを知ったのはこのnoteでした。本にはなっていませんが、魅力がいっぱいつまった文章なのでぜひ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?