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私の字に「感情」は表れない

手書きが好きだ。そしてこれは別に少数派ではない。手書きが好きな人はたくさんいる。そんなわけで「手書きlove」派のツイートやnoteやブログ記事をよく読んでいるのだが、その中でよく「手書きの効能」として挙げられているのがこれ。

手書きの文字には書いた時の感情が宿る。

怒っていたり悲しんでいたりした時は文字が乱れ、嬉しかったり喜んでいたりした時は文字もウキウキしている。だから読み返すとその時の感情までよみがえってくる。

しかしこれが私には当てはまらない。なんかいつのどのメモを見てもおんなじ字にしか見えない。これを書いた時は確かにブチギレていたはずなのに、文面は怒っているのに文字自体は怒っていない。

これは感情をそのままノートに表出させるのが下手くそだということなのかもしれない。感情を文字として表出させる過程で、ペンを持っている手を経由する時にだいたいの感情が濾過されてしまう。よく芸術で「作者の内にあるパッションをそのままキャンバスにぶつけた作品」などという評論を耳にすることがあるが、たぶんそれができない。絶対に手を通り抜けるするときに濾過される。

これは別に私が感情の起伏に乏しい機械のような人間であるとかそういうことではない。むしろ心が荒ぶりに荒ぶりまくっているからこそ、手が「まあまあ落ちつこうぜ」という役割を果たしてくれているということだと思う。
「落ち込む」ということがほぼないので感情に任せて何かを書くのは自然と怒っている時になるが、そうやって何かにムカついた時、心の中にあるイライラを文章としてまとめることでムカつきの原因を冷静に見られるようになる。それで「こんなヤツのことでキレるなんで人生の無駄だな、まあ私は大人だから許して差し上げるわ」となったり、「ああ私はこういうのが好きじゃないんだな」と確認できたりする。

そこに私の手書きの意味がある。私にとっては何を考えたかを自分の文字で残しておくことの方が、何を感じたかを残しておくより大事である。Don't feel, think.


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