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アニリール・セルカンと過ごす2021年GW(いやだ)〈「宇宙エレベーター」編〉

[ShortNote:2021.5.7]

「宇宙エレベーター こうして僕らは未来とつながる」大和書房/2006.7.10

 さあ2冊目いきましょう。袖の著者近影の構図が左に寄りすぎててトリミングしたのかと思った。一応学者なんだからこんなカッコつけたアーティスティックな写真じゃなくて普通にバストアップの方が変な反感を買わなくていいと思う。

第1章 宇宙の旅

 いろいろな夢が飛び交うなか、一人の子どもがこう言った。「セルカンになりたい」(p.12)

 ……開幕からいきなりさすカン。はいはい。スキートルコ代表でもなく宇宙飛行士候補でもないただの宇宙物理学者が子どもの憧れの的になるほど知られているものなんでしょうか。わかりませんけどもね。まずその子どもに「他の誰かになろうとするのではなく自分の人生を生きろ」と説教してあげた方がいいと思う。

 ここからは宇宙飛行士候補に選ばれるまでの話。「ポケットの中の宇宙」の自伝パートをもう少し詳しく説明した内容。訓練(という名の一般人向け体験コーナー)の写真もある。どう見ても休日のおじさんな「ドッキング訓練」の写真がカラーで載ってて笑いそうになってしまった。こんなの何回も見せられても……。

こんなことを言っては怒られるかもしれないが、実は宇宙に行けるかどうかは、僕にとってそんなに大きな問題ではない。(p.24) 

 「一生に一度でいいから宇宙に行ってみたい」と憧れる人がたくさんいる中で「ま、別に宇宙に行こうが行かなかろうがどうでもいいんですけどね」とクールに言ってしまうなんてさすカン。

 「未来へ延びる宇宙のエレベーター」(p.26-35)。タイトルにもなっている「宇宙エレベーター」の話をしているのはここだけです。9ページ!? タイトル変えろ!! ここでも盗用画像だと指摘されている「ATA宇宙エレベーター」のイメージが掲載されています。NASAのワークショップでNASAの発表を腐したさすカンエピソードの詳細も。地上と静止軌道をつないで隕石を捕まえて固定させるNASAの案に対し、セルカン案は地上からではなく軌道のポイント同士をつなぐというものだったようです。

 それから幼少期の「ドイツ国内小学生科学コンテスト」のエピソード。「コイツが特別賞を取って、もし俺様が優勝しなければ、科学をやめてお医者さんになってやる!」(p.40)「俺様」て。ヴォルデモート卿か。科学をやめて医者になるっていうのもすごいですね。この頃から自己評価が高いんですね。

第2章 次元の旅

 池の中の鯉の例えはわかりやすかった。ただこんなにくどくど物語を書かなくても「井の中の蛙大海を知らず」ということわざ一つで言い表せる気もする。

 まとめWikiで指摘されてる「赤は速い光」のくだり。ざっと調べたら光の速さが一定でない時もあるみたいな情報も見かけたんですけどここは文脈的に特殊な状況や条件の時ではなく一般論の話をしているようなので正しくないと言っていいと思います。

 「サンタさんは異次元トラベラー」(p.53-56)。他のところは常体で書かれてるのになぜかここだけ敬体で「楽しみにしているでしょう?」「言えないよね」「考えるんだよ」と子どもに語りかける口調。テーマがサンタさんだからこういう調子にしたのかもしれないけど、それぐらいの歳の子がこの本のこのくだりに到達するかどうか疑問です。というかこれって対象年齢どれくらいの想定なんでしょうか。宇宙に興味がある大人向けなのか。でもふりがな振られてるところもあるし小中学生くらい向け? よくわからない。

 「宇宙のソト」という概念の話。ここでセルカンの十八番「十一次元宇宙論」が登場しますが、「宇宙のソトという概念を創り出し、その視点から見た『アニリール宇宙』モデル」(p.66)というキャプションつきで載っているイメージ図に盗用疑惑があったりして真剣に読む気が若干削がれてしまったのでしょうもないことを言いますが、「ソト」と一貫してカタカナで書かれているのでそのたびに横浜DeNAベイスターズのネフタリ・ソトが頭をチラつく野球脳が発動してしまいました。場外超えて宇宙までホームランを飛ばしてしまうソト……?

 この次元のくだりに限りませんが、どうも導入部分は「おっ!?」とワクワクさせてくれるのにそこからだんだんモヤモヤして最終的に「えっ? 結局どういうこと?」となってしまうのが多いような気がする。目が3つ、指が7本あるという「4次元の女」の話とかも、「4次元では人間の体も変化し続けているかもしれない」というぐらいの着地点。3次元に生きている我々にとっては高次元の世界はよくわからないので「かもしれない」としか言えない……ということなんでしょうか。

第3章 時間の旅

 タイムトラベルの話。

当時1000歳の宇宙はまだ分子の状態なので、タイムトラベラーは到着するやいなや、細かい分子に分かれてしまうだろう……。(p.90)

→「ビッグバンから1000年経過した段階では、物質は分子どころか、さらに小さな単位である原子核と電子がバラバラに飛び交っているプラズマ状態と考えられている。原子核と電子が結合し、原子を作るのはビッグバンからおよそ38万年後とされている」(まとめWikiより)

 おい、37万9000年も誤差あるじゃないか。どうなってるんだ。さすカン。ちょくちょくこういうツッコまれてる記述が入ってくるので集中が削がれるしこういうのが一つでもあると文章全体の信憑性が低下してしまう。

 そこからタイムマシン実験の話。「どうせならすごいモノを作って、僕たちを辞めさせた校長に一泡吹かせてやるのも面白い、という気持ちがムクムク湧いてきた」(p.94)。もうすっかり校長先生が悪役ですが、一番悪いのはボヤを起こし人命を危険にさらすかもしれなかったセルカンたちではないんでしょうか。通報されて然るべきところにぶちこまれなかっただけありがたいとは思わなかったんでしょうか。ボヤで退学周りのエピソード読んでるとヤンキーものでよくあるような「ルールを破る俺らこそが正義」みたいなものへのモヤモヤ感と同じ気持ちになります。

ソジウム22を対消滅させて大きなエネルギーを作り出せば、タイムマシンを光速で動かすことができるかもしれない。(p.95-96) 

 ナトリウムの反物質を作成すること、十分な量の反物質を作成・採集すること、反物質を長時間保存すること、いずれも現代の科学技術でも不可能(まとめWikiより)らしいんですが、ロータス・エリーゼの件といいもうセルカンは本当にタイムトラベラーで未来からやってきたのだと思わないとつじつまが合わない。

 高校生たちが力を合わせてタイムマシンを造ろうとするなんてドイツ国内のこととはいえ相当話題になっただろうし映画とかになっててもおかしくないのに(「遠い空の向こうに」みたいに)なぜ「実際には行われていないのではないか」と疑われてるんでしょうね。実際にあったのならこんな疑いすら起こらないと思うんですが。どうも反物質を利用するアイデアといいセルカンと仲間たちを「教養も学力もない落ちこぼれの不良たち」ではなく「学校教育では扱いきれないとんでもなく自由な発想を持つわんぱくだが能力の高い天才たちで、学校で机に向かって先生の言うことをおとなしく聞いているだけのいい子ちゃんたちより優秀」というように描くためのエピソードのような気がする。

 「時間」を発明したという「スタンフォード・フレミング」、調べても出てこないのでん? と思ったら「サンドフォード・フレミング」でした。表記の違いかと思ったけど「Sandford」なのでどうやっても「スタンフォード(Stanford, Stamford)」という表記にはなりませんね。後で調べる時に手間取るからこういうのはちゃんとしてほしい。

西欧文化は、長い間「地球は平面だ」と主張し、コペルニクスの「地球は丸い」という、今では当たり前の理論を完全否定し続けてきた。(p.104) 

 これは「地球平面説という神話」のことですかね? 「近代に生まれた誤解で、中世西欧では地球球体説ではなく地球平面説がはびこっていたという謬説」(Wikipediaより)。

 突然始まる短編小説「セルカン、60代の自分に出会う」(本当のタイトルは「Dimension Travel タイムトラベルは、もう一人の自分と出会う旅」)。セルカンは猫嫌いだそうです。……敵だ!! それは冗談ですが、14歳の時どこからか現れた白猫にいきなり襲われたそうです。その猫、セルカンの本質を見抜いて「コイツはヤバい」と思って攻撃したんじゃないですかね。知りませんが。あれ、でもFacebookのカバー画像猫と写ってたような……まあいいか……。

第4章 歴史の旅

 天動説を否定するというプロモーションを打ち出したガリレオを名プロデューサーと言い、「僕の追い求める11次元宇宙理論も、真実と証明されるには数百年の月日を必要とするかもしれないし、途中で名プロデューサーの目に留まり、ぜんぜん関係ない名前で有名になるかもしれない」(p.130)。確かに有名になった。炎上によって。つまり「名プロデューサー」はセルカン自身だった……!?その下の写真のキャプション「イギリスの大学には、野球の永久欠番のように、著名な研究者の席を残す習慣がある。著者はダーウィン席で講義をする名誉を与えられた」。こんなちっちゃいところにもさすカン入れてくるのさすカン。隙あらばさすカン。

 その後にシュメール文明についての話が続きますが、「シュメール語ができる」というのにも疑義が差し挟まれているのでまた怪しいです。全部「A.セルカン訳」なのが怪しさを加速させている。「ドラゴン桜」にシュメール語とアッシリア語を取り違えた文章を載せたんじゃないか疑惑もあるし。

第5章 原子の旅

 「無我の境地」、古代語ができるとかNASAで研究してたとか肩書きで自分を飾り立てようとしたセルカンさんには一生辿りつけないでしょうね。

人間は日常生活において、仕事や恋愛、人間関係や進路などいろいろ悩んだり、あれこれ四苦八苦して物事をコントロールしようとやっきになるが、それは単に自分自身の原子が「観測」「決定」を行った結果に他ならない。おそらくこういうことをすればよいのだろうな、と思ったとしても、結局自分の原子が思っていたのと違う動きをして、予想もつかない展開が生まれてくることだってあるのだ。(p.174)

 なるほど、いくらセルカンが策略を巡らせて剽窃だらけの論文で博士号を騙し取ったり詐称で塗り固めた履歴書で助教の座をゲットしたり日本で幅をきかせたりしても、セルカンの中の「原子」はセルカンの意に反して破綻へ導いてしまったということですね。

人の存在に何か特別な意味を見出すことが、あまり必要とは思えないし、全ては偶然の産物に過ぎない。ただ、永遠に終わらない原子の旅の、ひと時の乗り物になったに過ぎないのだ。(p.178)
僕たちが、いかに生きようと、いかに死のうと、全てはエネルギーに始まり、エネルギーに終わる。(p.181)

 と終盤になって急に虚無的ですが、それはつまり「僕が一番好きな日本語は『ただいま(唯今・只今)』というコトバ。つまり、この瞬間こそが重要なのだということ」(p.181)だそうです。「その瞬間、人生を走馬灯のように思い出すのであれば、僕が感じたい思いはただ一つ『人生は楽しい旅だった』」(p.182)。ものすごく意地悪な見方をすると「今さえよければいい」ってことですよね。今さえ楽しければいいんだからいつかバレる嘘で固めても堂々としていられたんですね。

僕の頭に浮かんだのは、「縁」とは、「偶然の原子の動きによって導かれ、一つの方向性を共有すること」という考えだった。僕が将来、本当に宇宙とご縁があるかどうかは、僕自身の預かり知るところではない。その答えを知っているものはただ一つ。そう、原子だ。(p.182)

 まるでセルカン自身をこれから待ち受けている運命を予言しているかのようなセリフだというと過言でしょうか。セルカンの嘘がバレたのも東大から学位剥奪されたのも全部原子のせいですね。仕方ないね。そういえばちょっと前妖怪のせいにするのも流行りましたもんね。

エピローグ 僕は旅のガイドブックを買ったことがない

ボヤを起こして校長から説教されていた時、呼び出された父は僕のことを一度も責めなかったばかりか、「うちの息子の悪口を言っていいのは僕だけだ。二度と言うな‼」と言って、いつも側にいてくれた。(p.189)

 悪役校長再び。奨学金もらっといて授業をサボり挙げ句の果て火遊びで全方位に大迷惑をかけた不届き者に説教をしているのになぜか逆ギレしてくるセルカン父怖すぎる。やはりモンスター父子。あといくら親でも自分の子どもの「悪口」は言っちゃダメだと思う。「怒る」とかならまだわかるけどそれはそれで子どもがよその人に叱られてキレて殴り込んでくるモンスターペアレントみたいだし。

 そもそもセルカンはドイツ・トルコで小中高時代を過ごした可能性が高いと指摘されているのでこの「スイスの寄宿学校の校長」の実在すら危ういのですが、もし実在しているとしたら大人になったセルカンの日本でのやらかしを見てあの時の判断は間違ってなかったと胸を撫で下ろしているかもしれません。いくら頭が良くても何食わぬ顔で人を騙すような人間になっちゃいけませんよね。

 最後は家族や編集者などに感謝するコーナー。何ですか? 経歴詐称師に本を出版させてハクをつけてしまった人々リストですか?

 

まとめ

 「ポケットの中の宇宙」よりは専門的なことも言ってる分多少読み応えはあったけどそれでもやっぱり薄い。宇宙だったり4次元だったり原子だったり歴史だったりいろんなジャンルをちょろっとやってどれも別に深く突き詰めず次の話題へ、という感じなので消化不良感があります。しかし「ポケット~」より深いし自伝パートもちらっと出たエピソードの詳細が書いてあったりするし、この本は2006年発行で「ポケット~」は2009年発行なのでますます存在意義が不明。完全に「ポケット~」の上位互換では? セルカン本を読もうと思っている人はこの本だけ読めばいいと思います。いや、そもそもどれも読まなくていいんですが……。

 あと「宇宙エレベーター」ってタイトルなのに宇宙エレベーターの話がほとんどなかったのもマイナスポイントかも。タイトル、「こうして僕らは宇宙とつながる」だけでよかったんじゃないかなぁ……。WSEAの記事でも対談相手にこう言われてるし。

僕は以前から彼が地球の地上から宇宙につなぐ固定されたエレベーターについて論文を書かれている方だとは知っていました。けれども彼の著書「宇宙エレベーター」には、その構造物に関する手法は全然書かれていないんですね(笑)。工学的なことが書かれているかと思って読んだのですが、それよりも、人生を豊かにする方法について書かれている本だという印象を強く受けまして

(第11回 情報のセレンディピティー 宇宙につながる「関係性(Web)の未来(その1) )


 つまり宇宙のガワを被った自己啓発本みたいなことですかね。それなら多少納得。なぜ工学的なことを書かないのか? まさか「書かない」のではなく「書けない」のでは? と思ってしまいました。ひとたび計画の細かいところとか書いてしまうとガチの専門家から総ツッコミが入るから? ATA宇宙エレベーターなんて計画ないのがバレちゃうから? フワッとしたことを書いて素人を煙に巻ければOKなのか? どうせ科学オンチの素人は記述の真偽なんてわからないだろうからとりあえずそれっぽいこと書いて「よくわかんないけど難しいこと研究してるセルカンさんすごい! カッコイイ!」と思わせられればいいのか?

 「学校では~」「教科書ではこう教えられたかもしれないがでも~」と学校教育を軽視するような記述がちょくちょくありますが、そんな人の書いてることが「日本では高校物理の教科書に載っている知識であるが、宇宙物理学者を自称するセルカン氏は理解していなかったようである」(まとめWiki)とか辛辣に言われてるの皮肉ですね。やっぱり教科書をバカにしちゃいけませんよね。

参考:アニリール・セルカン経歴詐称疑惑 https://w.atwiki.jp/serkan_anilir/sp/
宇宙の晴れ上がり|天文学事典 https://astro-dic.jp/clear-up-of-the-universe/
地球平面説という神話-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E5%B9%B3%E9%9D%A2%E8%AA%AC%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%A5%9E%E8%A9%B1

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