創作のこと

 ものを書くこと自体は、小学3年生くらいからずっとしている。最初に書いたのは忘れもしない、当時の教科書に載っていた新美南吉のごんぎつねやてぶくろを買いに、を読んで触発されたんだろう、きつねと兄弟の出てくる童話だった。担任の先生に褒められてお昼の放送で朗読させてもらったことを覚えている。自分の書いたものを喜んで読んでくれる人がいる、処女作からそう思わせてもらったことは僥倖だった。いやむしろ、黙殺されればその後に続く長い長い創作迷路に足を踏み入れなくて済んだのだろうか、今となってはわからない。

 以来30年以上にわたって時折数年のブランクを挟みながらも私は私の書きたいものを書きたいように書き続けている。特に「二次創作」を長くやってきた。二次創作というのはいうなればオリジナル作品ありきのそこに出てくるキャラクターを借りたパロディだ。

 私はそこでキャラクター同士の、原作では示唆すらされていない「恋愛関係」を勝手に読み取り、書き続けてきた。人様の創作物で何させてもらっとんねんという後ろめたさを抱えながら、それをやらないと生きていけなかった、今でははっきりそう思う。逆に言えば私はそれらを書き続けることで、なんとか現実との折り合いをつけて生きていくことができた。思春期の(女性)性にまつわるあれこれの、やりきれなさと付き合う上で、同性のキャラクター同士を恋愛させる物語を量産することがどうしても必要だったのだ。そういう女性は多いのではないかと思う。

 とはいえ一次創作をしていた時期もある。大学時代の数年間は二次創作から離れて(足抜けできた、と思っていた)公募に投稿したこともある。とある文芸誌の審査員特別賞をいただいたこともあったし、じゃあと意気込んで投稿した別の賞ではふつうに一次で落とされた。打たれ弱い私は一度の挫折で「私にオリジナルの小説を書くことは無理なんだ」と思い込んだ。それでも書くことはずっと好きだったから、その時々ではまる作品の二次創作を綴ることで自分の創作欲求を満たしてきた。

 二次創作は楽しい。何せ同好の士に、自分の書いたものを見せることで「私の作品解釈」を共有してもらうことができる。20代後半からの20年ほど、それほど爆発的に読者を獲得できるわけではないものの、何かを書けば必ず感想をくれる「少数の、熱烈なファン」という読者を得られたおかげで、自分の創作欲求と承認欲求をそこそこ満たしながら平和にやってきた。ここで細々書いていられればそれでいい、ずっとそう思っていた。

 その安寧がこの一年ほどでがらがらと崩れた。きっかけは以前と同じようなものを書いても、読者がつかなくなったことだった。私は自分の文章の強みが「丁寧な心理描写」「文章の読み易さ」にあることをわかっていたし、それと同時に自分の欠点が「物語としての起伏を作れないこと」にあるのもわかっていた。けれどキャラクター二人の恋愛を描いていれば、たいした起承転結はなくても良かったのだ、あくまでそこでは恋愛成就までの二人の気持ちの「移り変わり」を丁寧に描けばよかったから。

 何故、今までのように書いても読んでもらえないのだろう……そう思ってあらためて見渡した二次創作の世界で紡がれる物語は、以前とはすっかり様変わりしていた。原作の二人をちょっとお借りします、この二人に恋愛させて、それをうまくいかせたいだけなので、というような「恋愛要素の補足」的な話は減って、原作顔負けの、書き手の解釈で練り上げられたサイドストーリーそのものの世界の中で、とある二人が結ばれる、そんな大きな物語が増えた。そこでは私にとってのメインコンテンツ、「恋愛」は添え物だった(それ以上にPV数を稼ぐことができるテンプレ的なR18ものについてはここでは触れない)。とにかく皆の書く話が長い。1万字未満の短編では相手にされないのだという焦燥感にかられた私は、長い話を書くよう試みた。けれど、ストーリー展開を磨くことに関心がなかったのだから一朝一夕でうまくいくはずがない。何を書いても相手にされないのは、二次創作の世界で「自分の書きたいものを書く」ことの次に大事な、「布教活動」――同好の士を増やすことすらできないということだ。そんなこんなで私はすっかり自分の書く「意味」を見失っていった。承認欲求が創作欲求を上回る、「ブックマーク」「いいね」の数が指針となる創作SNSの世界で。

 そんななか、「そもそも私は書くことで何をしたかったんだっけ」というところに立ち戻れたのは、ひとつのきっかけとしては良かったのかもしれない。私は「書く」ことで何を体現してきたのか、実現してきたのか。自分の内にある、「自分の考えていること」を言葉を使いながらも全てを言葉に頼らずに表現すること、ずっとそれをしたかった。それだけをしたかった。「お話」というものの形を借りて文章を紡ぐことで、私はいつでも私ですら知らない自分を知ることができた。私はいつでも自分を知りたかった、「私」が何を考えているのか、何をしたいのか、どう生きようとしているのか。私の書く文章がいつでも私にそれを教えてくれた。

 私にとって創作、「書くこと」とはいつでもそういったことで、生きていく上で、自分を知る上でどうしても必要だった。

 今わかることはそこまで。「書く」という自分にとっての盾でもあり剣でもある行為で、この先何を成し遂げていけるのか、に今やっと、思いを至らせることができたような状況だ。私が書くことで、自分のためだけでなく、外の人にも何かできることがあるとしたら――今はそんな予感をただ、福音のように聴いている。

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?