謳歌

https://youtu.be/0uWDru5PzaA?si=1SJYgBmlZ3bQJdOG

このコンサートは1990年だったのですね。
私は当時テレビで見て、録画もしつこく見て、
黒人霊歌というものの魅力を、いつものごとく深く考えずに、
なんか得体の知れない魅力としてそのまま受け止めていて…。
でも今にして思うとね、
R&Rのご先祖様を、ここでちゃんと通過してるのですね。
バトルとノーマン、二人は違うタイプだけれど、
リズムと歌い回しのコントロールは素晴らしくて、
二人にそういうバックグラウンドがあったかどうかわからないけど、
クラシックの様式美に縛られない音楽性は、
私のような精神自由主義者にはとても気持ちよかった。
カーネギーホールで黒人が演奏することは、
まだそんなに普通でもなかったんじゃなかったっけ…。
なんとなく思い出したのは、
ここへ至るまでにはバトルやノーマンよりも前に、
先人たちの切り開いてきた道があり、
一流としてクラシック界に実力を認められたこの二人によって、
この場所で黒人霊歌が歌われることは大変意味深い、
というようなコメントをどこかで見たのだと思います。
それでもヨーロッパではけっこう差別されたんじゃないかな。
ドイツの歌曲はドイツ人にしか歌えないとか
まあそういうプライド的な差別心っていうのは、
けっこう根強いものなので。
実際そういうエピソードもちらほら聞くし。
最近、黒人霊歌が沁みるようになってきて、
このコンサートの演奏曲をよく思い出すのです。
心が痛いときに、何か救いを求める気持ち。
神様を信じたくなる気持ち。


そんなふうに、また新たな気持ちで過去の音楽経験を振り返りながら、
自分の音楽史として結構重要だったなーと思っていたりします。

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深い河ほど静かに流れる、
これはテネシー・ウィリアムズ「ガラスの動物園」で知った言葉だ。

小学校の塾から中学高校まで友人だった彼女は
演劇部でこの作品をやりたかったのだけど、
周囲の賛同を得られず、できなくて泣いた。
私はその作品を読んでみたくなって、
読んだけど辛くて、今思い出しても辛い。

アメリカ文学の厳しさ、救いのなさは、
黒人霊歌とどこか繋がっている。
今書きながら感じたこと…。
深い深い悲しみ。
救いがないけど希望の光を見ている。

ジェシーノーマンの圧倒的な声量とブルージーな声質は黒人霊歌にぴったりで、 この歌などは圧倒される。

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バトルとノーマンの掛け合いが楽しい曲、 「悪口を言われたの」 

目立たない至上主義の私でございますので、 派手に悪口を言われた経験はなく、 免疫のないこんな歳でそんな経験したら 間違いなく重症化すると思うのですが、 このくらい軽く受け流せればなー。 友達ってほんとに大事だ。

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とりあえず色々語ってきたメモの貼り合わせですが、
ちゃんと書くには、私には深すぎて、もう少し時間が必要です。
ただ、カーネギーホールに鳴り響く黒人霊歌の堂々たる存在感、
バトルの自在な歌とノーマンの深い憂いに宿る光が表す人間の可能性、
そういうものを今、信じていたいと思っています。